いきものがたり まとめ 10 (第14回) [いきものがたり]
『第14回 -前編- 』
今につながる出会いを経て。やっとデビューが見えてきました…。
デビュー曲の「SAKURA」は島田昌典さんにプロデュースしてもらうことになった。前にも触れたが、いきものがかりはデビュー前の1年間ほど、デビュー曲の選定でかなりの迷走をして、デビュー曲候補とされて実際に制作が行われながらも、話が前に進まなかった曲が、いくつかあった。
島田さんにプロデュースをお願いしたのも、実は「SAKURA」が初めてではなく、その前に「ノスタルジア」というインディーズ時代の代表曲を託していた。これは実際にデビュー前にレコーディング(歌入れをのぞく)が行われた。数年後に時をかけてリリースされた。
島田さんのお宅にはプライベートスタジオがあって、そこで会ったのが初対面だったと思う。自宅にスタジオがある(しかもめっちゃおしゃれ!)というのが、まだ学生だった僕らには信じられなくて、キラキラした憧れを、目の前で見させてもらっている感覚だった。
レコーディングのサウンドチェックで、何気なくaikoさんの楽曲のイントロを島田さんがピアノで弾いたときは、声も出なかった。ふりしぼって「うわ…本物だ」とこぼすのがやっとだ。メンバーと「(い、い、いま、聴いた!?)…!!!」と目を合わせた。
島田さんに手掛けてもらった初めての曲。「ノスタルジア」のレコーディングのとき。こちらは終始、緊張していたのだが、作業の終わりかけに島田さんが突然こちらに振り返って「いい、歌詞だねぇ…」と言ってくれた。ボソっと言ってくれたその姿が、嬉しかった。
デビュー曲”候補”だけが増えていく1年間だったが、そのなかで、いまでもお世話になっているプロデューサーの皆さんとの出会いも多くあった。田中ユウスケさんや、江口亮さんも、当時に出会っている。
田中さんはインディーズ時代の「コイスルオトメ」のレコーディングが出会いだったと思う。はじめに事務所の会議室へ打ち合わせに来てくれたのだが、おしゃれなジャージ姿が印象的で、まさに新進気鋭のクリエイターという雰囲気が漂っていて、かっこよかった。
そのくせ、こちらが恐縮するほど低姿勢で、大人たちがどんな無理難題を言いだしても笑顔で「ですよねぇー」と言って、華麗にボールを投げ返してしまう。本人は「やめてくださいよぉ〜」とおっしゃるかもしれないが、天才なんだと思う。
「じょいふる」は田中さんの存在なくしてヒットしなかった。「じょいふる」をあのかたちで出せたことは、自分たちの将来を変えてくれたと思う。
江口さんと初めて出会ったのは下北沢の喫茶店だ。「月とあたしと冷蔵庫」という曲をプロデュースしてもらうことになって、その打ち合わせだった。
なにを話したかは全然覚えていないけれど、とにかく会話の80%くらい江口さんがずっとしゃべっていた気がする。江口さんが帰ったあと3人で顔を見合わせて「よくしゃべるひとだったね」と言い合ったことを覚えている。
江口さんと僕らは、年齢がそれほど変わらない。だから本当に良き先輩、お兄さんのような存在だった。ディレクターに厳しく鍛えられていた僕らを見て、気にかけてくれたんだろう。ずいぶん優しくしてもらった。先輩バンドマンとして色んなアドバイスもくれた。
当時は3人ともまだ海老名、厚木に住んでいた。レコーディングが終わるとそちらに帰る。作業が朝方まで続いた終わりに「送ってってやるよ」と、なんと江口さんが車で3人を海老名まで送ってくれたこともあった。
のちに「ブルーバード」や「気まぐれロマンティック」など、自分たちの代表曲と呼べる作品も、江口さんに手がけてもらった。おこがましいかもしれないけれど、戦友と呼べる先輩だ。
デビュー前に、亀田誠治さんとも出会っている。 最終的に「SAKURA」のカップリング曲となった亀田さんのプロデュース曲「ホットミルク」は、デビュー曲の最有力候補だった。レコーディングしたときは、自分たちはこの曲でデビューするのだと思っていた。
僕らの世代で、亀田さんが手がけた音楽に影響を受けていないひとはいないだろう。水野なんかは高校時代、ノートの落書きに「作詞作曲 水野良樹 編曲 亀田誠治」と夢を書いていたくらいだ。亀田さんの作業スタジオの玄関先で、ご本人の笑顔を初めて見たときは、震えるようだった。
亀田さんとの初対面の日、吉岡はお母さんに持たされたお土産を持参していた。厚木の鮎モナカという、どこの田舎にでもなにかひとつはある、いわゆる地元の名物菓子だ。不躾だったのだと思うのだけど、亀田さんはそのときのことを後になるまでずっと覚えていてくれて、笑ってくれた。
今だから言える話だけど、初めて亀田さんにプロデュースしてもらえるのが自分の書いた曲ではなく山下の曲だと知って、当時はちょっぴり悔しかったものだ。まだ若かった。「ホットミルク」から数年間、2度目の機会は巡ってこなかった。「風が吹いている」まで辿り着くのはまだ先のことだ。
ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。
『第14回 -中編-』はのちほど。
『第14回 -中編- 』
もうちょっとです。もうちょっとで、デビューなのです。
デビュー前に、3人で観覧したライブで、忘れられないものがふたつある。ひとつはYUKIさんの武道館ライブ。もうひとつは、サザンオールスターズの皆さんの横浜アリーナ年越しライブ。
デビューが近づいてきて、これから世に出る3人に、少しでも勉強になればと思ったのだろう、大人たちが、いろいろなつながりのなかでライブを見せてもらえる機会を与えてくれた。
吉岡にとってaikoさんやYUKIさんの存在は、もちろん大きなものだ。路上ライブではaikoさんの「カブトムシ」を何度も歌ったし、高校では「ジュディマロ」という本物をもじった名前のコピーバンドをやっていた。吉岡の世代の女の子の多くがそうであるように、無邪気に憧れた。
日本武道館という場所を訪れたことだって数える程度しかなかった僕らにとって、YUKIさんの武道館ライブは、文字通り圧倒的なものだった。ちょうど「JOY」がヒットした頃だ。目の前の座席にはYUKIさんのMV衣装を完璧に真似て踊りまくるファンの皆さんが、大勢いた。
YUKIさんの一言、一言に、悲鳴のような声があがる。ここまで人々を熱狂させるものなのかと。説明するまでもないのだろうけれど、正真正銘の”カリスマ”のライブだった。
帰り道、あまりの凄さにうなだれて水野は呟いた。「いやぁ…これは勝てない…。勝てっこない…。」すると吉岡がこちらにキッと振り返って、なんともすごいことを言う。「そんなこと言わないで!勝たなきゃいけないんだから!!がんばんなきゃいけないんだから!」と怒る。
吉岡が背伸びをしたことを言っているようだが、つまるところ水野も、YUKIさんと張り合おうなんて、身の程しらずも甚だしいことを考えたうえでこの言葉を吐いているわけで、今から振り返れば恥ずかしい会話だったかもしれない。
でも二人ともデビューするということは、世に出るということは(「勝つ、勝たない」という言葉が適しているかは別にして)自分たちが憧れるこんな先輩たちとも、ちゃんと向き合えるような存在になる覚悟を、持たなきゃいけないとは、思えていたのだと思う。その覚悟は、必要なものだった。
不恰好で世間知らずだったけれども、その熱い意気だけは、無駄に心からはみでていた。そんな吉岡と水野だったのだと思う。ちなみに、山下はあの頃から、ポーカーフェイスだった。
2005年の末だ。来年の春に、自分たちは世に出るのだと心に決めている。そんな年末。横浜アリーナの立ち見席で、サザンオールスターズの皆さんの恒例の年越しライブを見た。
老若男女、全世代のひとたちが来ていた。徹頭徹尾、エンターテインメント。楽しくて、キラキラしていて。誰もが知っている曲なのに、歌詞がちゃんと表示される。桑田さんは「ありがとうね!ありがとうね!」と盛んに感謝の言葉を口にする。
うわぁ、これを目指せばいいんだ。理想が、ここにある。そう思った。
いまだにはるか遠いところにある背中で、目指しているなんて言葉をつかうことも、今はおこがましいしなと思う。加えて、いろいろなことを経験して、自分たちが理想とする姿も変わっていった。追いかけるのではなく、自分たちでつくらなきゃならんのだと、今はその現実に息を切らしている。
ただ、あの日、あの場所で、あのライブを観れたことは、ほんとうに幸運だった。「心を込めて花束を」が演奏された。いつか自分もこの歌のように、どこか遠くまでたどり着いた先で、感謝を述べることができるだろうかと、ぼんやり、そう思っていた。
ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。
『第14回 -後編-』はのちほど。
今日中にデビューさせたい…。長い…汗。すんません…。
「第14回 -後編-」
デビューです。SAKURAの、マスターテープ。
デビュー曲「SAKURA」は、リリースが決まったときはノンタイアップだった。もう楽曲の強さだけに賭けて、とにかく一度世に出してみよう。そんな風な心境に、なっていたと思う。
だがチームのスタッフは、それでもあきらめず、どうか3人のデビューが少しでもよいかたちになるようにと、ギリギリまで頑張ってくれていたようだ。突然、電報のCMで、「SAKURA」が使われることになったという知らせが入ってきた。
”抜擢”だったのだと思う。もっと名のあるひとの曲を使うのが当然だったはずだ。地元の神奈川でも大した知名度がなかった僕らのような無名の新人を、なぜか使ってくれた。聞けば、とにかく曲を気に入ってくれたという。一番、うれしい話だ。
3月の初旬頃だろうか、CMが流れ始めた。いつも見ているテレビのなかから、自分たちの曲が聴こえてきて、うれしいというより、少し不思議な感覚だった。親戚からはそれこそお祝いの電報が、送られてきたものだ。そのCMが人生を変えることになるのは、もう数週間後のことだ。
デビュー日はFM横浜の楽屋で迎えた。
当時、僕らはFM横浜でレギュラー番組を持っていて、放送日が火曜日の深夜だった。CDのリリースは水曜日。つまり日付が変わる瞬間は、FM横浜にいた…ということになる。
CMが少しずつ流れ始めていたけれど、別になにかが変わったわけでもまだなかった。世の中の注目を浴びて、期待の大型新人、待望のデビュー!!という感じではまったくなかったので、正直、リリース日はあっさりと、ひっそりと、迎えていたというのが正直なところだと思う。
その後、10年間をともに戦うことになるマネージャーの加藤さん。プロモーターの栗原さん。そこにいたのは、数人のスタッフと、メンバーだけだったと思う。加藤さんは初代マネージャーから、現場をまかせられて、まだ数ヶ月の頃だったと思う。ちょうど今の僕くらいの年齢だったろう。
栗原さんなども、担当を言い渡されて、数日前に着任したばかりだったはずだ。まだ会話もそれほどしていない頃だったか。今では自分たちの作品を世に届けてもらううえで、もっとも信頼しているチームスタッフのひとりだ。熱い戦友である。
そんな感じで、今から考えれば、あのときは、まだなにも始まっていなかった。ほんとうに、なにも。わくわくして、はしゃぐ…という風でもなかった。ただ、静かに、やっと始まるんだなぁ…と。
番組の放送を終え、楽屋にいくと、FM横浜のディレクター加藤さん(マネージャーと同じ苗字!)がお祝いにシャンパンを用意してくれていた。紙コップで、それぞれに分けて、みんなで静かに乾杯した。たぶん、あの乾杯は、一生忘れないだろう。
デビューシングルの盤面に、メンバーでお互い、サインをしあった。水野は、吉岡と山下にしてもらい、他の二人もそれぞれ自分以外のメンバーにサインをしてもらう。そのCDを、お互いに記念として、持った。
水野はたぶん実家に帰ればあると思う。山下は「どこにやったっけかな?」と、とぼけている。3人のなかで唯一、吉岡が、そのCDをことあるごとによく眺めていたという。その話を、最近になって聞かせてくれた。
サインの横にメッセージが書いてあったそうだ。「10年後もCDを出しましょう。…って、リーダーの字で書いてあるんだよ。ああ、そういえば、これ、もうそろそろ叶うんだなって」書いたことを忘れていた。でも、どうやら吉岡が言うようにその目標は、あとちょっとでかなう。
その言葉を書いてから、もうすぐ10年になる。2006年3月15日。いきものがかりは「SAKURA」で、静かに、デビューを果たした。
今日はここまで。乱文、そして長文、お粗末様でした。
やっとデビューまで来れました。とほほ…笑。
次回は『第15回』
おまけ
@abemitsuyasu 僕のCDには「リーダーよ、永遠に」っていう、よくわかんないメッセージが聖恵の字で書かれてました笑。
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