いきものがたり まとめ 12 (第17回) [いきものがたり]
2016年 3月1日~2日
第17回
『第17回 -前編-』
故郷で。
(396) 「SAKURA」がCMで流れ、少し話題になりはじめた頃。地元でもCD即売を兼ねた、ライブイベントをやろうということになった。どこがいいかとなって選ばれたのが「厚木サンパーク」という広場だ。
「厚木サンパークってところで、イベントをやることにした。地元だから、3人は知ってるよね?」そうスタッフに聞かれたが、全然わからない。「厚木サンパーク?そんな公園あったっけ?」よくよく聞いてみると、どうやらバスロータリーの上の広場のことを言っているらしい。
普段は閑散としている場所だ。正直、やんちゃなお兄ちゃんたちが深夜にたむろしている光景しか浮かばない。「あそこ、厚木サンパークなんていう洒落た名前がついてるのか!」あんなところに果たして人が集まるんだろうか。地元を知っているからこそ、不安だった。
当日、都内からマネージャーとともに4人で車で厚木へと向かう。インターを降りたところでマネージャーが現地で準備している他のスタッフにもうすぐ着くと連絡すると電話口の声が慌てている。「やばいです。とんでもないことになってる。」
現地まで来てみると、バスロータリーの階段に人が溢れている。いままで、ここでこんな光景を見たことがない。「え?なんかあったの?お祭り?」「いや、うちらのライブに来てるひとだよ」「ええ、まさか」。そのまさかだった。階段を上がると、そこに2000人の市民がいた。
スタッフも誰ひとり予想していなかった規模の集客だった。バスロータリーの上に造られたその広場、冗談じゃなしに底が抜けるんじゃないか、大丈夫か?と心配になったほどだ。見たことのない光景。地元のひとたちの応援を、強く感じた瞬間でもある。
厚木でイベントをして、2ヶ月ほどの期間を経てから、海老名のショッピングモールでも同様のライブをした。そのときは5000人がそこに集まる。ステージで演奏をするのだけど、自分たちの背中側にもお客さんがいる。広場に人が収まりきらず、溢れているのだ。
即売会なので、ライブが終わるとすぐにメンバーが1枚1枚、手渡しでお客さんにCDを渡す。長蛇の列のなかに、高校時代の友人がいたり、お世話になったピアノの先生がいたり、はたまた家族がいたり、ようは知り合いがたくさんいた。つまりは、そこはやはり、我が街だった。
こうやって話していくと、なんだかすごく人気者になったかのようなエピソードだけれど、この頃はまだ、全国的な知名度は低い。当時から熱い声援で迎えてくれた海老名や厚木のみなさんには感謝するばかりだが、一歩、地元を出れば、まだまだ名は知られていなかった。
そんななかで、「全国ツアー」をしようということになった。サードシングルが出たばかり、まだファーストアルバムもリリースされていない頃。メジャーで世間に発表されている曲は、3枚分のシングル曲とカップリング曲だけ。そんな状況でワンマンライブツアーをやるという。
そもそも地方でのライブを、ほとんど経験したことがなかった。ツアーというものがなにかを、まったくわかっていない。神奈川や東京以外の場所で、自分たちのライブを見に来てくれるひとがいるのか、想像ができなかったと思う。
スタッフにツアータイトルを考えろと言われて、吉岡がさして時間も置かず「いきものがかりのみなさん、こんにつあー」とその場で答えた。「あはは。もう、それでいい」みんなで笑った。初めてのツアーが始まる。
ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。
『第17回 -中編-』はのちほど。
『第17回 -中編-』
こんにつあー。
(408) 今から考えればよくあの頃の知名度でうちの事務所もツアーをやらせたものだなと思うけれど、地方のライブハウスで鍛えられてこい、という意味もあったのだろう。ハイエース1台で、メンバーとサポートメンバー、マネージャーとPAスタッフ1名。機材も詰め込んで、全員で旅に出た。
旅に出る瞬間を覚えている。用賀のインターのあたりで、機材を詰め込んだ。座席の足元にもそれぞれ自分たちの荷物。元気だけはあった。そこから青森の八戸に向かう。いや茨城の大洗だったか。港がどこからだったか記憶があいまいだが、初日は北海道。つまりフェリーに乗り込む。
正直、楽しかった。全部初めてだから。ライブをしに、旅をする。それだけでワクワクしてしまう。北海道に自分たちのライブを待っている人がいる。それが信じられない。ま、チケットは半分も売れていなかったのだけど。
夜通しで海を渡るのだが、最初のフェリーの旅は、大部屋で雑魚寝だった。個室はない。吉岡も一緒。よく男連中に混ざってたくましく旅をしたものだと思う。とはいえ、男子たちは部屋とは別の、休憩スペースのようなところでずっと酒を飲んで過ごしていたのだけど。バカもたくさんした
ツアーで飛行機を使わせてもらえるようになるまで2、3度ツアーを回ったと思う。それまで何度かフェリーに乗ったが、修学旅行生の集団と一緒のときもあった。他の同級生のいないところで、意中の男子に告白する女子中学生をみつけ「リアルコイスルオトメだ!」とはしゃいだときもあった。
ツアーの初回公演は札幌のライブハウス。キャパは300人くらいだったろうか。そこに100人に満たないくらいのお客さん。それでも初ツアーということで、テンションだけは高かった。1曲目に選んだのはなんと「SAKURA」だった。
今でこそ、皆さんに知ってもらっている曲も多くあるけれど、当時はいきものがかりの曲で「聴いたことがある!」と言ってもらえる曲など「SAKURA」しかなかった。正直、「SAKURA」だけを聴きにきているというひとだっていただろう。それをいきなり最初にやり終えてしまう。
若くて、向こう気の強さだけは身の程を越えてあったのだと思う。「SAKURA」だけに頼ってたまるか。「SAKURA」以外の曲でライブを成立させてやる。と、その頃は思っていた。初めてのツアーなのに。本当に生意気だったなぁと思う。
幸いなことにホテルはビジネスホテルで、ひとり、ひと部屋を用意してもらえた。車中泊をするバンドも少なくないのに、そこについてはすごく恵まれている。
初回のツアーは公演数も少なかったのでそれほどでもなかったけれど、2年目、3年目のツアーは数も多く、数週間の長きにわたって東京を離れることも多かった。ホテルに着くと、みんなコインランドリーのある階を確認する。部屋につくなりダッシュだ。洗濯機の奪い合い。面白かった。
忘れられなかったのは福岡公演。東京から車で14時間ほどをかけての移動。会場は福岡 DRUM SON。実は最初のツアー、チケットが完売したのは東京と大阪の2公演だけで、とくに福岡は開催が危ぶまれるほど売れなかったそうだ。
さすがにワンマンを強行するのはやばいとスタッフは思ったらしく、地元のバンドを急遽ブッキングして、オープニングアクトとして出てもらった。こういうときほど、呼ばれた方は「関東の奴らに負けるか、なにくそ」と思うのか、20分の持ち時間を40分もやられてしまった。
ステージから彼らが降りてきたところを迎えると「あっためておきました」と皮肉たっぷりに言われてしまう。ワンマンをやろうとして威勢良く打ち出したはいいものの、それが身の程知らずと思い知らされて、急遽、頼んでいるこちらからしたら、頭を下げるばかりで、ぐうの音も出ない。
しょうがない。気をとりなおしてステージに向かう。照明がついて客席を見ると、一瞬で気づく。本当に客が少ない。ただでさえ小さなライブハウス。それが明らかに空いている。ずっとあとに聞いた話だ。売れたチケットはわずか10枚あまりだったらしい。そりゃ、ワンマンはできないわ。
それでも福岡のラジオ局の皆さんなどの関係者、オープニングアクトで出てくれたバンドさんのファンの方々。それらを足して、なんとか数十人のお客さんが目の前にはいた。「懸命にやるしかない」ステージにいる人間が思えるのはそれくらいのことしかないが、予想しない反応が起こった。
その数十人のお客さんが、空いている客席スペースのなかで、みんな一気に前に詰めてくれた。信じられないことに、この明らかに失敗しそうな空気のただよっている無名の新人のライブを、お客さんのほうから、盛り上げようとしてくれたのだ。
嬉しかった。その客席の意気に、未熟な僕らは、大いに救われた。懸命に、ただがむしゃらにやるだけのライブだったと思うが、忘れられないライブとなった。あれから福岡でのライブ会場が大きくなるたびに、あの日のことを、いつも、思い出す。
数本のツアーだったが、すべてが初めての連続だったその旅は、まだヨチヨチと歩き始めたばかりの新人の僕らを大きく成長させてくれるものだった。福岡のライブが終わったあと、現地のイベンターさんが言った。「以前、イベントで見たときと別人だった。なにがあったんですか?」
できないことが多かった。(それは今でもさして変わらないのかもしれないが。)でも、だからこそ、すべてを糧にして、ありあまる体力だけを動力に、前に進めるだけ進んでしまおう、そんな気持ちが、3人にもチームにもあったのだと思う。
ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。
『第17回 -後編-』はのちほど。
『第17回 -後編-』
四国にて、同志と出会う。
(427) ツアーとも並行して、この頃は全国各地のライブイベントに、呼んでもらえれば喜んで、せっせと顔をだしていた。あるとき四国のラジオ局の主催で、現地のライブハウスを数組の出演者でまわるイベントに出向いて行った。
四国でのライブは、そのときが初めてだった。初日の会場は、徳島ジッターバグ。200人程のキャパのライブハウスだ。当日の朝、ライブハウスの前でその日対バンする、ある3人組グループと出くわした。目立っていた。メンバーのひとりがお坊さんが被るような笠帽子をつけていたからだ。
3人とも異様に愛想がよく、声がでかい。「はじめまして。ファンキーモンキーベイビーズです。よろしくお願いします」「はじめまして、いきものがかりです、よろしくお願いします」それが彼らとの出会いだった。笠帽子をかぶったDJケミカルさんは階段で座禅を組み、精神統一をしていた。
日替わりだったと思うが、他に数組のメジャーアーティストと、現地の四星球というバンド(←いまでも忘れられないくらい面白いバンド)が参加していた。しかし、これが残念ながら、またもや客があまり入っていない。
当時、同期デビューで言えば絢香さん、デビューは少し早いがレーベルメイトで同時期に売り出されたアンジェラ・アキさん、すでにインディーズでミリオンを飛ばし、鳴り物いりでデビューしたAqua Timez。同世代のスターたちが多くいた。
売れる、売れないの話を、自分の立場の人間がするのはせせこましいとは重々承知しつつも話すが、デビューした数組のバンドが集まってもライブハウスが半分も埋まらない。自分たちはまだ全然、世の中に受け入れられていないんだ、と思わされる機会は(恐ろしいことだが)慣れるほどあった。
その四国のイベントも、そう感じさせられる機会だった。ま、それでも懸命にライブをやることに変わりはない。出番が遅かったので、先に対バン相手のライブを見る機会を得た。朝に会ったファンキーモンキーベイビーズのライブを、空いている客席の後方で見た。
衝撃だった。
彼らの解散ライブを東京ドームで見た。その東京ドームでのライブと、あの四国で初めて見たときのライブ。彼らのライブに対する姿勢は、最初から最後まで変わることがなかった。恐ろしいほど、全力投球。数十人の客にも、数万人の客にも、彼らは拳を振り上げて叫んでいた。
しかも楽曲が素晴らしかった。「恋の片道切符」「そのまんま東へ」「西日と影法師」当時、ライブハウスで聴いたのはそれらの曲だったと思うけれど、どれも耳をしっかりとつかんで離さないもので、ライブ直後に自分は出演者なのに物販へ行き、アルバムを買った。
楽屋に戻ると、ファンキー加藤くんがパンツ1丁でパイプ椅子に座っていた。息は切れ、前かがみに頭を下げて腰を掛け、今にも倒れこみそうな顔をしている。プロレスラーの試合後の映像を見ているようだった。「なんなんだ、このひとたちは」びっくりした。
「なんでこんなに素敵な曲を歌って、こんな凄いパフォーマンスをするひとたちが、売れてないんだろう」自分にとって、それは少しショックなことだった。でも、それがまったくの杞憂だったことは、その後の、彼らの歴史がもう証明したけれど。
別に打ち上げで仲良く話したわけでもなかった。でも、お互い、お茶の間に近いところを戦場として、同じような言葉を世間にぶつけられながらも、それぞれにボールを投げて、世に歌を届けていった。いつしか、自分は彼らを特別な意識を持ってみるようになった。同志だと、そう思った。
ファンモンが渋谷AXをやったと聞いたら、なにを!と思った。じゃあこっちは渋公でライブだ!と息巻いていたら、今度は向こうが武道館を決めたという。別に会場の大きさを競っているわけじゃないけれど笑。彼らが頑張っていると、不思議と勇気がわいて、頑張れた。
楽天の田中投手が日本シリーズの最終戦で登板したとき球場に流れた「あとひとつ」あのシーンを見たときは、泣いた。ファンモンのすばらしい曲たちは何曲も世の中に届いていったけど、その象徴みたいだった。あえて言うなら、やっぱり”俺ら”は届けられるじゃないか。そう思えて、泣けた。
解散後も、ファンキー加藤くんは、自分が憧れている彼のかっこいい背中のイメージ通り、挑戦を続けた。そしてすばらしいことにモン吉さんも、また新たに音楽活動をご自分のペースで始めるという。自分たちも彼らに胸を張れるよう、頑張りたいと、いつもそう思う。
今日はここまで。乱文、長文、お粗末様でした。
次回は『第18回』
遂にここまで来ました 笑
2月29日は吉岡聖恵さん、8回目のバースデー
と、いうことで、渋谷にてサプライズパーティーが
敢行されました。
今回のサプライズは、まあまあうまくいったようで
良かったですね♬
聖恵ちゃん、32歳、本当におめでとうございます
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