SSブログ

いきものがたり まとめ 14 (第19回) +リーダー10周年のコメントまとめ [いきものがたり]


2016年3月10日

第 19 回

 

 






『第19回 』
 


決別。  

 

(474) デビュー直前の育成期間については以前も触れたが、ディレクターとの厳しい格闘は、デビュー後もずっと続いていた。吉岡は相変わらず強い言葉をあびながら歌入れを行っていたし、水野、山下も、作っては直しを繰り返す、終わらない日々を送っていた。

当時は制作についてはもちろん、ジャケットやMVなどビジュアル面に対しても、初代ディレクターが主導権をもってチームが動くことが多かった。信じられない話かもしれないが「夏空グラフィティ」のMVまで、スタートの打ち合わせに僕らは参加させてもらった記憶がない。

さまざまなことが「決まっている」ことのほうが多かった。それを受け入れるだけ。実績がない僕らにはそれが越えることのできない現実だった。ただ初代ディレクターの熱量というのは凄まじいもので、その熱量が人を動かし、チームを動かしていたことも事実だった。

だから僕らも、歯をくいしばってついていった。多くのことに対して理不尽を感じることはあっても、いま堪えなければ、もう自分たちの歌が世にでることは二度とない。正論を吐き、理由をつくって、逃げるのは簡単だ。でも投げ出してしまったら、そこまでだ。 

今だったらもっと器用に、そして毅然としていられたのかもしれない。だけれど当時の僕らにはそうするしかなかった。つまるところ僕らにはあのとき力がなかった。ただそれだけのことだ。力のないものには、なにもできない。これは音楽のことだけではない。すべては語れない。力がなかった。 

あのとき踏みにじられたプライドを、自分たち自身を見失いそうになった恐怖を、にも関わらず何ひとつあらがうことのできなかった悶えるような情けなさと悔しさを、理解しあえるのは、おそらくメンバー3人だけだと思う。喜びよりも悔しさを共有したとき、グループは強くなる。 

ただ誤解しないでほしい。初代ディレクターを含め僕らに関わってくれたチームの人々は、いきものがかりを世にだすために、それぞれの立場で出来る最大限のことを、それぞれの強い情熱のもとで、全力であたってくれていた。そのうえで、僕らに力がなかっただけだ。 

その熱量の激しさに、僕らは押しつぶされそうになったけれど、「いきものがかり」というグループを世に出すという1点に関して、初代ディレクターは他の誰よりも、強い情熱をもっていたことは確かだった。しかし、ついにある決断をするときがくる。 

ある日、自分のところに、ライブ後の打ち上げで当時のサポートメンバーとディレクターが、口論になったという報告がくる。山下のことについて、ふたりが言い合ったという。メンバー3人が帰ったあとの、僕らがいないところでの出来事だった。  

当時、水野、山下はともに精神的に参っていたが、元来が短気で勝ち気な自分は、それでもディレクターに向かっていった。その一方、少しナイーブなところもある山下は、ディレクターと向き合うことをもうなかば避けていた。それがディレクターから見れば物足りなかったのだろう。 

ディレクターの口から「いまの山下は、いきものがかりに、必要ない」という言葉がこぼれたという。酒の勢いもあったのかもしれない。だが、それを聞いて、当時ともにツアーをまわってくれていたサポートメンバーは怒り、山下のことをかばってくれたという。 

自分のなかで何かが切れた瞬間だった。すぐさま事務所に連絡をとり、こう告げた。「山下を必要ないと言うひとと、仕事はできない。ディレクターを変えるようレコード会社に言って欲しい。それが叶わないなら契約を切ってもらって構わない。クビにしてくれ。路上からやり直す。」 

メンバーを必要ないと言われることを、許すことなどできなかった。3人は互いに人生を背負いあっている。多くの仲間ができた今も、それは変わらない。たとえ他のすべてのひとを裏切ることになっても、解散の日がくるそのときまで、僕が守るべきは、あの2人だ。 

そんな感情的な部分を除いても、作り手として、自分が最も信頼するソングライターである山下を否定するひとに、音楽の才を認めるわけにはいかない。音楽をともにつくる相手として、そんな才のないひとを、信頼はできない。自分たちの音楽に対する強い確信は、そんなやわいものではない。 

向こう見ずな、青臭さもあったとは思う。ディレクターのいきものがかりに対する強い情熱に、感謝の気持ちがあった一方で、自分たちが進むべき道は、彼が思っているものとは違うところにあるということを、もう、うやむやにするわけにはいかなかった。力が無いなりの、最後の戦い方だった。 

連絡を受け、多くのひとが動いてくれた。もちろん皆それぞれの立場で、3人を守りたいと思ってくれている。チームをとりまく体制が少しずつ変わっていくことになった。関係各位との話し合いを終え、疲れ果てた夜。深夜の事務所の会議室でマネージャーと二人きりになった。 

インディーズ時代から僕らについている加藤マネージャーだ。加藤さんも、加藤さんの立場でディレクターと向き合い、協力しあいながら、いきものがかりの初期のチームを作り上げてきた。ディレクターの貢献に感謝する気持ちがありながらもメンバーを守りたい。複雑な気持ちもあったはずだ。 

「いやぁ、このあと、どうなるんですかね。インディーズに戻るかぁ。どこで路上ライブやろうかな。」「まぁ、厚木、海老名からかな。ははは。付き合うよ。」ふたりで笑いながら、泣いた。なぜ泣けたのか今でもわからないのだけど、大の男がふたりして、泣いた。 

そろそろ、桜が咲く頃になっていた。デビューしてもうすぐ1年が経つ。ファーストアルバム「桜咲く街物語」が世にでることになる。僕らにとっては大事な始まりの作品であり、初代ディレクターがその強すぎる情熱を燃やした作品でもある。 

最終的には壊れてしまったけれど、互いに、ぎりぎりのところで情熱をぶつけあった。と、少し、綺麗な物語にしすぎなのかもしれないが、今は心からそう思っている。互いに、限界まで向き合ったからこそ、出来たものもある。僕らを世に出した「SAKURA」が、まさにそうだ。 

あの日々を、一言では言い表せない。あのとき感じていたことを、一言では言い表せない。でも、そのすべてが「桜咲く街物語」にはつまっている。アルバムは、静かに、ヒットした。 

 

今日はここまで。乱文、長文、お粗末様でした。

 

 

次回は『第20回』

 

 

 


3月15日

リーダー、デビュー10周年記念日に寄せてのツイート 



image.jpeg


あらためてこの写真は、
いまから10年前の3月15日に、
水野と山下のふたりが吉岡に手渡したデビューシングルです。

僕は覚えていなかったんですが

「10年後もCDを出しましょう」

とメッセージを入れていました。
これが、叶いました。

ということで、
いきものがかりはデビュー10周年の日を、
無事に迎えることができました。
”出来ないこと”のほうが多い3人が、
この大衆音楽の世界で、
10年という長い月日を越えてこれたのは、
やはり自分たちが、つながりのなかに身を置けたことに尽きると思います。  
いきものがかりの「歌」は
プロデューサー、ミュージシャン、エンジニア、ディレクター…
そんな様々なプロフェッショナルの方々の、
情熱を重ねあうようなつながりのなかで、
本来の輝き以上の輝きを与えられていきました。

その意味で、
いきものがかりの音楽は、
3人だけのものでは絶対にありません。 

そして、
つながりのなかで完成した作品を
しっかりと世に届けようとする愛あるチームにも僕らは出会えました。

時代が変わり、
音楽を届けるかたちが変わっていくなかで、
このような旧来型の歴史を受け継いだかたちでのチームが成立するのは、
もしかしたら僕らが最後かもしれません。 

ポップソングとは
「誰のものでもあり、誰のものでもない」ものになるべきだと、
僕自身は思っています。

それは聴き手にとっても、僕ら届け手にとっても同じです。
つながりのなかで出来上がり、
つながりのなかで届けられるものは才能を持った(かのように魅せる)
1アーティストの所有物ではありません。

たった3人で始まった物語が、
いつのまにか、本当に多くのひとにつながっていきました。
いまでは、”多くの誰か”の物語になりました。
感謝しかありませんし、幸せであるという言葉しか出ません。 

僕ら3人は、もう少し、その物語を続けたいと思っています。
それは、今までの10年よりも、とても、とても難しいことです。
ただ、前に進むしかありません。ただ前にしか。


これからも、いきものがかりを、よろしくお願いします。

 

 

image.jpeg

3月15日、いよいよ「超いきものばかり」が発売になりました。

デビュー10周年おめでとうございます!

 

 


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。