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超いきものまつり 海老名でしょー!!! セットリスト [超いきものまつり]

これ、超いきものまつり専用ボトルなんですよ。。
知らないで2つのうち、
初日もらった方を普通に飲んで
捨ててしまいました(´Д` )←アホ

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さて、
ハードな2日間が終わりましたね。
天候は期待していたものとあまりにも違いましたが、
それによって受け取れたもの、
自分の中に残る素敵なものが
あまりにも多かった気がします。

メンバー始め制作に関わった全ての方、
そして参加された皆さん、
本当におつかれさまでした。

厚木も楽しみましょう!![ぴかぴか(新しい)]



てなわけで!
海老名でしょー!!!
2daysのセトリをアップします。

もちろん、厚木もありますので、
いつものように下の



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をクリックしてくださいね。

他に、フォトレポレベルになりますが、
2日間の模様のレポも
後でやりたいと思います
(^ー^)ノ[ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)][ぴかぴか(新しい)] ←めっちゃあやしい 笑






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いきものがたり まとめ 14 (第19回) +リーダー10周年のコメントまとめ [いきものがたり]


2016年3月10日

第 19 回

 

 






『第19回 』
 


決別。  

 

(474) デビュー直前の育成期間については以前も触れたが、ディレクターとの厳しい格闘は、デビュー後もずっと続いていた。吉岡は相変わらず強い言葉をあびながら歌入れを行っていたし、水野、山下も、作っては直しを繰り返す、終わらない日々を送っていた。

当時は制作についてはもちろん、ジャケットやMVなどビジュアル面に対しても、初代ディレクターが主導権をもってチームが動くことが多かった。信じられない話かもしれないが「夏空グラフィティ」のMVまで、スタートの打ち合わせに僕らは参加させてもらった記憶がない。

さまざまなことが「決まっている」ことのほうが多かった。それを受け入れるだけ。実績がない僕らにはそれが越えることのできない現実だった。ただ初代ディレクターの熱量というのは凄まじいもので、その熱量が人を動かし、チームを動かしていたことも事実だった。

だから僕らも、歯をくいしばってついていった。多くのことに対して理不尽を感じることはあっても、いま堪えなければ、もう自分たちの歌が世にでることは二度とない。正論を吐き、理由をつくって、逃げるのは簡単だ。でも投げ出してしまったら、そこまでだ。 

今だったらもっと器用に、そして毅然としていられたのかもしれない。だけれど当時の僕らにはそうするしかなかった。つまるところ僕らにはあのとき力がなかった。ただそれだけのことだ。力のないものには、なにもできない。これは音楽のことだけではない。すべては語れない。力がなかった。 

あのとき踏みにじられたプライドを、自分たち自身を見失いそうになった恐怖を、にも関わらず何ひとつあらがうことのできなかった悶えるような情けなさと悔しさを、理解しあえるのは、おそらくメンバー3人だけだと思う。喜びよりも悔しさを共有したとき、グループは強くなる。 

ただ誤解しないでほしい。初代ディレクターを含め僕らに関わってくれたチームの人々は、いきものがかりを世にだすために、それぞれの立場で出来る最大限のことを、それぞれの強い情熱のもとで、全力であたってくれていた。そのうえで、僕らに力がなかっただけだ。 

その熱量の激しさに、僕らは押しつぶされそうになったけれど、「いきものがかり」というグループを世に出すという1点に関して、初代ディレクターは他の誰よりも、強い情熱をもっていたことは確かだった。しかし、ついにある決断をするときがくる。 

ある日、自分のところに、ライブ後の打ち上げで当時のサポートメンバーとディレクターが、口論になったという報告がくる。山下のことについて、ふたりが言い合ったという。メンバー3人が帰ったあとの、僕らがいないところでの出来事だった。  

当時、水野、山下はともに精神的に参っていたが、元来が短気で勝ち気な自分は、それでもディレクターに向かっていった。その一方、少しナイーブなところもある山下は、ディレクターと向き合うことをもうなかば避けていた。それがディレクターから見れば物足りなかったのだろう。 

ディレクターの口から「いまの山下は、いきものがかりに、必要ない」という言葉がこぼれたという。酒の勢いもあったのかもしれない。だが、それを聞いて、当時ともにツアーをまわってくれていたサポートメンバーは怒り、山下のことをかばってくれたという。 

自分のなかで何かが切れた瞬間だった。すぐさま事務所に連絡をとり、こう告げた。「山下を必要ないと言うひとと、仕事はできない。ディレクターを変えるようレコード会社に言って欲しい。それが叶わないなら契約を切ってもらって構わない。クビにしてくれ。路上からやり直す。」 

メンバーを必要ないと言われることを、許すことなどできなかった。3人は互いに人生を背負いあっている。多くの仲間ができた今も、それは変わらない。たとえ他のすべてのひとを裏切ることになっても、解散の日がくるそのときまで、僕が守るべきは、あの2人だ。 

そんな感情的な部分を除いても、作り手として、自分が最も信頼するソングライターである山下を否定するひとに、音楽の才を認めるわけにはいかない。音楽をともにつくる相手として、そんな才のないひとを、信頼はできない。自分たちの音楽に対する強い確信は、そんなやわいものではない。 

向こう見ずな、青臭さもあったとは思う。ディレクターのいきものがかりに対する強い情熱に、感謝の気持ちがあった一方で、自分たちが進むべき道は、彼が思っているものとは違うところにあるということを、もう、うやむやにするわけにはいかなかった。力が無いなりの、最後の戦い方だった。 

連絡を受け、多くのひとが動いてくれた。もちろん皆それぞれの立場で、3人を守りたいと思ってくれている。チームをとりまく体制が少しずつ変わっていくことになった。関係各位との話し合いを終え、疲れ果てた夜。深夜の事務所の会議室でマネージャーと二人きりになった。 

インディーズ時代から僕らについている加藤マネージャーだ。加藤さんも、加藤さんの立場でディレクターと向き合い、協力しあいながら、いきものがかりの初期のチームを作り上げてきた。ディレクターの貢献に感謝する気持ちがありながらもメンバーを守りたい。複雑な気持ちもあったはずだ。 

「いやぁ、このあと、どうなるんですかね。インディーズに戻るかぁ。どこで路上ライブやろうかな。」「まぁ、厚木、海老名からかな。ははは。付き合うよ。」ふたりで笑いながら、泣いた。なぜ泣けたのか今でもわからないのだけど、大の男がふたりして、泣いた。 

そろそろ、桜が咲く頃になっていた。デビューしてもうすぐ1年が経つ。ファーストアルバム「桜咲く街物語」が世にでることになる。僕らにとっては大事な始まりの作品であり、初代ディレクターがその強すぎる情熱を燃やした作品でもある。 

最終的には壊れてしまったけれど、互いに、ぎりぎりのところで情熱をぶつけあった。と、少し、綺麗な物語にしすぎなのかもしれないが、今は心からそう思っている。互いに、限界まで向き合ったからこそ、出来たものもある。僕らを世に出した「SAKURA」が、まさにそうだ。 

あの日々を、一言では言い表せない。あのとき感じていたことを、一言では言い表せない。でも、そのすべてが「桜咲く街物語」にはつまっている。アルバムは、静かに、ヒットした。 

 

今日はここまで。乱文、長文、お粗末様でした。

 

 

次回は『第20回』

 

 

 


3月15日

リーダー、デビュー10周年記念日に寄せてのツイート 



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あらためてこの写真は、
いまから10年前の3月15日に、
水野と山下のふたりが吉岡に手渡したデビューシングルです。

僕は覚えていなかったんですが

「10年後もCDを出しましょう」

とメッセージを入れていました。
これが、叶いました。

ということで、
いきものがかりはデビュー10周年の日を、
無事に迎えることができました。
”出来ないこと”のほうが多い3人が、
この大衆音楽の世界で、
10年という長い月日を越えてこれたのは、
やはり自分たちが、つながりのなかに身を置けたことに尽きると思います。  
いきものがかりの「歌」は
プロデューサー、ミュージシャン、エンジニア、ディレクター…
そんな様々なプロフェッショナルの方々の、
情熱を重ねあうようなつながりのなかで、
本来の輝き以上の輝きを与えられていきました。

その意味で、
いきものがかりの音楽は、
3人だけのものでは絶対にありません。 

そして、
つながりのなかで完成した作品を
しっかりと世に届けようとする愛あるチームにも僕らは出会えました。

時代が変わり、
音楽を届けるかたちが変わっていくなかで、
このような旧来型の歴史を受け継いだかたちでのチームが成立するのは、
もしかしたら僕らが最後かもしれません。 

ポップソングとは
「誰のものでもあり、誰のものでもない」ものになるべきだと、
僕自身は思っています。

それは聴き手にとっても、僕ら届け手にとっても同じです。
つながりのなかで出来上がり、
つながりのなかで届けられるものは才能を持った(かのように魅せる)
1アーティストの所有物ではありません。

たった3人で始まった物語が、
いつのまにか、本当に多くのひとにつながっていきました。
いまでは、”多くの誰か”の物語になりました。
感謝しかありませんし、幸せであるという言葉しか出ません。 

僕ら3人は、もう少し、その物語を続けたいと思っています。
それは、今までの10年よりも、とても、とても難しいことです。
ただ、前に進むしかありません。ただ前にしか。


これからも、いきものがかりを、よろしくお願いします。

 

 

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3月15日、いよいよ「超いきものばかり」が発売になりました。

デビュー10周年おめでとうございます!

 

 


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まとめ⑤ 超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」 49~60終 [超セルフライナー]


2016年3月3日

 

 【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


49.「翼」

 

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10周年の春に、
みなさんのもとに改めて届いていく新曲として、
山下がつくったこの「翼」があります。

いきものがかりには3人のソングライターがいますが、
この10周年の2016年にこそ、
山下がつくるメロディの魅力がより、
多くのひとに伝わっていけばいいなと思います。

(水野)

 

 

 

3月4日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

50.「マイステージ」

 

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この曲は、去年行ったツアーの本編最後に歌った曲です。
自分が生きているという事や、
ステージに立てているという事を、
強く感じながら歌っていた一曲です。

力強く、優しく、そして壮大なバラードという印象があります。

(吉岡)

 

 

 

 

3月5日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

51.「ラブとピース!」

 

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最新シングルです。
PVの加藤諒くんに要注目!

(山下)

 

 

 

3月6日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

52.「笑顔」

 

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ミュージックビデオは、
ぼくの思いをくんでくれたのか、
三木監督が10個くらいの企画を考えてきてくれて。
そのなかで、もっともシンプルで強いメッセージのあった、
ひとびとの表情だけをつなぐというコンセプト案を選びました。

このときの吉岡の表情が好きでね。

いい空気で歌っていますよね。

出演してくれたみなさんの笑顔も、
なんか不思議と泣けてくるんですよね。

この曲を聴いたときに、
それぞれの「わらってほしいひと」を思い浮かべられるような、
そんな歌になればいいなと、思っていました。

考えてみれば、その理想こそが、
うちらいきものがかりが目指している歌の姿ですよね。

誰かが誰かを想うときの気持ちと、つながる。

それが一番、

歌が歌としてあるための、大切なことなんだと、
いまは思っています。

(水野)

 

 

 

3月7日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

53.「風が吹いている」

 

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この曲は、「NHK ロンドン2012 放送テーマソング」としてつくっていった曲です。
リーダー・水野が持ってきてくれたこの曲のデモテープは、

「ライブバージョンなのではないか?」

と思ってしまう程、熱が籠っていました。

オリンピックに挑む選手の皆さんは、
4年に1度の瞬間に全てを懸けて臨まれていて、
そんな姿に、試合の映像に、
この曲が重なって放送されるんだと思うと、
身が引き締まる思いでした。

私達いきものがかりも、
オリンピックを観に、ロンドンまで行った事も、
とても貴重な体験になりました。

この曲は、Bメロから始まるという所も、珍しいポイントで、
アルバム『NEWTRAL』のツアーでは、
曲の最後の「La La La...」の部分を、
会場の皆さんと一緒に歌えた事も、印象に残っています。

力強い楽曲になったのではないかなと思っています。

(吉岡)

 

 

 

 

3月8日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

54.「地球」

 

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古い!!古い!!古い!!曲。

高校二年生とかだったもん。

路上でもよくやったな~

ちなみに「掛け違えたボタン~」というのは
実は歌中の二人の年齢が一つ違うよ、という意味でした。

(山下)

 

 

 

3月9日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

55.「熱情のスペクトラム」

 

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ダイナミック命、みたいな曲です。
『七つの大罪』の主題歌でした。

そのことから原作者の鈴木央先生と対談することもできてうれしかったです。

いくつもの正義が乱立して、お互いゆずらない昨今。
エンタメ的な楽曲だけど、意外と言葉を詰めた曲になりました。

(水野)

 

 

 

 

3月10日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

56.「ありがとう」

 

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この曲は、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」の主題歌としてつくっていった曲です。

この曲をリリースした2010年に、私達は全県ツアーをしていて、
そのツアーの中で、この 「ありがとう」を歌っていきました。

ドラマの盛り上がりと共に、
この曲を演奏した時の、
ツアー会場にいるお客さんたちのリアクションが徐々に変わっていき、
ツアーの後半になると、

「待ってました!」

という雰囲気を感じるようになりました。

ストレートな言葉達で歌われるこの曲を、
皆さんの日常の中で口ずさんだり、
聴いて頂けたら嬉しいです!!!

(吉岡)

 

 

 

 

3月11日

【超セルフライナーノーツ“~本日の一曲~”】

 

57.「Sweet! Sweet! Music!」

 

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桂文枝師匠が出てきます。
と、言うと怒られる気がするので言いません。
とにかくおもしろおかしく歌詞を書いてみました。

(山下)

 

 

 

3月12日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

58.「ホントウノヒビ」

 

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カップリングベストって、いままで話がなかったわけじゃないんですよ。

でも、なかなか出すタイミングをつかめなくて。

今回、初回盤にボーナスディスクをつけるとなって

ここだ!

ってみんなでなったんですよね。

「ホントウノヒビ」のような、
アルバムにも収録されていないカップリング曲って、
なかなか多くのみなさんに聴いてもらう機会がないんですよね。

ですから、こういう曲たちにまたスポットライトがあたって、
みなさんのところに届くのはすごくうれしいことです。

カップリング曲のほうが、
そのときのグループの息遣いが出ていたりして、
吉岡の声質とかね、
全然時期によってちがったりでするんですよね。

それが、本当にマスタリングしてても面白くて。

ぜひじっくり聴いてみてください。

(水野)

 

 

 

3月13日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

59.「ぼくらのゆめ」

 

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この曲は元々、
柔らかくて優しい感じのするメロディだな、という印象があって、
どんな歌詞になるのかなぁと思っていたんですが、

リーダー水野曰く、

“メンバーに宛てた手紙”

の様な歌詞になったそうです。


“自分たち自身の事を歌う”なんて事は、今まで無かったけれど、
この「ぼくらのゆめ」の、
優しくて軽やかな雰囲気で本編の最後を飾れて良かったのではないかな、
と思っています。

(吉岡)

 

 



3月14日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
 
 
 
 

60.「SAKURA」

 

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この曲で、私達いきものがかりはメジャーデビューをしました。

デビュー曲には色々な候補曲がありましたが、
アコースティックでの演奏もとても似合うこの曲でデビュー出来た事は、
元々路上ライブから始まったいきものがかりにとって、
とても良かったのではないかなと思っています。

この曲のミュージックビデオは、
私達の地元を通っている小田急線沿線の富水駅という場所で撮影をしました。

撮影の日に、早く着き過ぎてしまった私は、
撮影の為に用意された桜の木の下で、
その桜の木を警備(?!)していてくれた、
警備員の方と暫く話しながら、
集合時間まで過ごしていたという思い出があります。(笑)

卒業シーズンや新生活が始まるこの季節に、
この「SAKURA」を聴くと、自分自身、
デビュー当時の期待と不安が入り混じったような気持ちが蘇ったりもしますし、
デビューした時から何度も歌っているこの曲は、
本当に何度も歌って、自分達に馴染んでいる曲ですが、
未だに新鮮さも感じています。

2006年の3月15日に、
この「SAKURA」のシングル曲でデビューした私達ですが、
当時、そのCDに男子メンバー2人からサインを書いて貰っていて、
そこにリーダー水野が

「10年後もCDを出しましょう・・・」

と書いてくれていました。

今回、その10年後の、
3月15日にこのベストアルバムを出せる事になり、

「本当にそうなったんだ!!!」

と不思議な気持ですし、
いつも支えて下さる沢山の方々、
そして何よりも曲を聴いて下さる方々に、
本当に感謝しています!!!

デビューしてから10年間の、
いや、いきものがかりは結成17年目だから、
結成してから17年間分の曲達を、
是非聴いて、楽しんで頂けたら嬉しいです!!!

(吉岡)

 

 

 

毎日一曲ずつお届けしてきたベストアルバム
「超いきものばかり」収録全60曲の
メンバーによるセルフライナーノーツ企画

「超セルフライナーノーツ『〜本日の一曲〜』」…

無事完結!ありがとうございました!

 

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いきものがたり まとめ 13 (第18回) [いきものがたり]


2016年3月6日  

第18回

 

 

 『第18回 -前編-』

  たいばん。

(443) ファンキーモンキーベイビーズの他にも、デビュー初期は多くのバンドやシンガーソングライターとの出会いがあった。中規模のライブハウスで、イベントに出させてもらうことが多く、実に様々なタイプの対バンを経験する。 

(444) 奥華子さんや、秦基博さんといった面々と連れ立って、関東ローカルツアーを行ったのもこの頃。東京以外の、首都圏郊外の市民会館を、若手何組かでまわるツアーだ。

奥華子さんは、インディーズ時代からたびたびイベントで一緒になった。デビュー直前に渋谷O-WESTで初めていきものがかりの主催イベントを開いたときも、奥さんに出演して頂いた。 

成功も失敗も、3人で分け合って受け止めればいい僕らに比べ、鍵盤とご自分の身ひとつでステージにあがり、堂々と歌われる彼女の姿が、当時の自分たちからは眩しかった。奥さんの特徴であるかわいらしい歌声のイメージの向こうには、強い芯があるように思えた。 

関東ローカルツアーで出会ってからというもの、いろいろな現場で会うたびに、さんざんちょっかいを出してしまったのが秦基博さんだ。年上だけどなぜか秦さんは何でも許してくれる気がして、当時現場で姿をみかけるたびに僕ら3人は用もないのに、ニヤニヤと秦さんを見つめた。 

「ぜったいバカにしてるっしょ!」と怒りながら、笑ってくれるのが秦さんで、あの当時から、兄のように慕った。すばらしい楽曲と歌声は、言わずもがなで、初めて聴いたときは本当に衝撃だった。こんなに素晴らしいアーティストなのに、こんなにお茶目なんて!笑。

音楽プロデューサーの島田昌典さんを囲む「島田会」というイベントがある。そこでコラボレーションをすることになり、秦さんと初めて一緒にリハーサルスタジオに入った。もちろんライブではその歌声を聴いていたけれど、横に並び、至近距離で生声を聴くのはその時が初めてだ。

「弾き語り」を武器とする男性シンガーは世に数え切れないほどいる。数万はくだらないだろう。その数万人から、彼がたったひとり強い輝きを持って世に出てくる理由をそこで初めて体感した気がした。秦さんの歌声を聴いて、勝てない…と知り、夢をあきらめたシンガーも沢山いるはずだ。 

秦さんは同期デビューのひとりだ。秦さんも、今年デビュー10周年を迎えることとなる。ファンモンと同じように、刺激を受け合いながら、ともに歩いてきたと思える同志だ。 

意外に思われるかもしれないけれど、チャットモンチーの皆さんとも初期に出会っている。共通の知り合いの方が、両グループを引き合わせてくれて、あるとき、ご飯をみんなで食べようとなった。それがたまたま、いきものがかりの結成日だった。 

目指しているものは両グループにそれぞれだけれど、だからこそお互いの違いが刺激になって、そのときはすごく盛り上がって、楽しかった。久美子さんが新しい道へ進むことを決め、3人最後のイベント出演となった日は、メンバーで話し合って3人でこっそり見に行った。 

あの楽しかった会から、ずいぶん経ってしまったけれど、互いに、自分たちが目指すものに対してまっすぐと、それぞれの場所で、走りつづけられていることが、嬉しい。 

当時は今ではなかなか実現できない組み合わせでのイベントも多かった。シドと、ONE OK ROCKと、いきものがかりが、ともにZeppTourを回ったなんて話、みなさん信じられるだろうか。音楽誌主催のイベントツアーだったけれど、今だにあれは貴重な対バンだったなと思う。 

自分たちのライブツアーではなく、場合によってはアウェーとも呼べる環境でパフォーマンスをすることになるイベントライブは、否応なく、僕らを鍛え上げたと思う。そういう機会に多く恵まれていた自分たちは、幸運だった。  


ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。

『第18回 -後編-』はのちほど。









『第18回 -後編-』

   ”約束”の場所へ。  


(457) デビューして数ヶ月、あれは夏頃だったろうか。思いも寄らない話が3人のもとに聞こえてきた。レコード会社の社長のカズさんが、いつもの調子で突拍子もなく自分に伝える。「おぉ、水野、あれや。なんか小田さんがお前らのSAKURA、聞いてるらしいわ」 

「CM見ていい曲だって。カズ、お前のところのヤツらだろって、言われたわー」正直、信じられない話だ。またカズさんが話を大きく盛ってしゃべってるんじゃないかと思った。「え?小田さんってあの小田さんですか?」「おぉ、小田さんいうたら小田和正さんや」 

カズさんには悪いけれど、信じなかった笑。しばらくして、また数ヶ月たって、今度はもっとはっきりとした話が自分たちに伝えられた。「クリスマスの約束に出てくれないかと、お話がきました。」 

毎年末にTBSで放送される「クリスマスの約束」。小田和正さんの音楽番組だ。同じ時代を生きている多くのアーティストたちが、互いに認め合い、敬意を伝えあえるように。小田さんの想いをもとに2001年にスタートしたこの番組の初期の放送を、学生時代、自分は実家で見ていた。 

ちょうどその頃のいきものがかりはどんな状況かと言えば、受験や、吉岡の音大での挫折などで、まったく活動をしていない時期だった。音楽の道を志す気持ちが芽生えていたけれど、ただの1歩も前に踏み出せてはいない頃。テレビで見た小田さんの姿は、もちろん別世界のものだった。 

「ああ、いつかこのひとに呼ばれる日が来ないかな。」なんていう夢物語を考えても、それはあまりにも非現実的すぎること。「そもそも、いま、俺、音楽やっていないじゃないか。スタートラインにも立っていないのに」ただ、ぼぉーっと画面を眺めながら、あの歌声に感動するだけだった。

デビューしてがむしゃらな数ヶ月を過ごして、しかしまだ自分たちの名は、全国ではっきりと知られているわけではない。ファーストアルバムも出ていない。ディレクターとの格闘はデビュー後も続いていて、日々は本当につらい。そのなかで突然射した、光のような話だった。  

リハーサル前に、小田さんの事務所で打ち合わせ。ここで初めて、小田さんと会うことになる。事務所のリビングのようなところに通され、ほぼ硬直したまま、3人で待つ。奥から、あのひとが、やってきた。 

「ああ、小田さんって、実在するんだ…。」山下がそのとき思ったこと、である。なんだか怒られそうな話だけれど、ついこないだまで普通の大学生だった田舎の若者だ。自分も隣にいて、そう思ってしまう気持ちはすごくよくわかった。

「どうも。はじめまして。小田です。」静かに僕らに挨拶をしてくれた。3人とも心のなかで思った。「知っています。」それが小田さんとの出会いだった。 

リハーサルで曲のテンポの話になった。CDの音源より、少しだけ早めないか。小田さんが提案をしてくれたのだけれど、バラードということもあってちょっとの差で大きくイメージが変わる。素直に吉岡が「いや、このままのテンポがいいと思います」と伝えた。 

小田さんはそのことが印象に残っていると、後に伝えてくれた。若い連中が素直に意見を言ったのを、少し嬉しく思ってくれたようだった。それから今に至るまで数年間、小田さんと意見のやりとりをする貴重な機会を、何度も自分は得たが、小田さんはいつでも耳を傾け、向き合ってくれた。 

ステージに上がる瞬間は「夢が叶うんだな」と思っていた。そんなことを思ったのは、この10年間で、あのときだけだったと思う。「目標が叶う」と思ったことは、幸せなことに何度もあったけれど、「夢が叶う」という言葉が頭をよぎったのは、あのときだけだ。 

その日、出演したアーティストで、小田さんと同世代の斎藤哲夫さんがいた。楽曲は「悩み多き者よ」「グットタイムミュージック」素晴らしかった。小田さんが聞く。「今まで長いこと音楽をやってきて、いまどう思う?」斎藤さんは笑顔で即答した。「幸せでしたね。」 

とても印象に残った一言だった。まだ始まったばかりの僕らにとって、はるか遠い言葉だったけれど、希望のような言葉にも思えた。「クリスマスの約束」はその後も、自分にとっては、音楽を続けていくうえでの希望と呼べる光景を、何度もみせてくれた。 

小田和正というひとに出会えたこと、その背中をときに後ろから、ときに横に並んで、みつめる機会を何度も得たことは、自分にとってかけがえのないことだ。小田さんが実の両親と同い年だということも、おそらく自分が小田さんを慕う気持ちを強くさせていると思う。 

いつも強い風のなかで、ずっと戦いつづけている。でも、その厳しさを、自分から語ろうとはしない。ただ静かに、鍵盤の前に座り、歌を届けるだけだ。その背中を、遠い背中を、追っている。
  

今日はここまで。乱文、長文、お粗末様でした。




次回は『第19回』




















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まとめ④ 超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」 37~48 [超セルフライナー]


2月20日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

37.「蒼い舟」

 
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インディーズ時代によくやった記憶がありますね。
爽やかなんですよ、本当に、爽やか。
やっぱり山下らしいですよね。

いつも思うんですけれど、あいつの曲は、
匂いがあるというか、空気感がちゃんとあって。

それは僕に書けるものでもないし、山下独特のものなんだと思います。

それがインディーズ時代の曲から、変わっていないんですよね。

(水野)

 

2月21日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

38.「オリオン」

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この曲は、数年前にファンクラブツアーを行った時に、
メンバーそれぞれが1曲ずつ歌うという試みをした時、
山下がつくってきて歌ったのが始まりです。

イントロがハープで始まり、
ゆったりとしたムードが漂う曲で、
冬の澄んだ空気が感じられるような1曲なのかなと思っています。

(吉岡)

 

2月22日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

39.「夏色惑星」

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なんやかんやと我々、夏の曲が多いのだろうか??
よく冬の曲が少ない、とのご指摘は受けますが。
まぁ、なかなかしかし埋もれていた曲なので、ぜひご堪能あれ。

(山下)

 

2月23日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


40.「いこう」

 

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流れるようなメロディ、そこに軽やかに言葉がのっていく。
それが山下のソングライターとしての“らしい”ところなんだと思います。
この楽曲もそうですよね。
そんでもって、書くのがすんごく早い。
ところてんみたいに言葉が次から次に出てきて
憎たらしいほど、さらさらっとあいつは書きます。
あんまり悩まないみたいですね。
すっと出すみたいな。羨ましいですよ、ほんとに笑。

(水野)

 

2月24日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


41.「東京」

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デビューする前の年の2005年は、
地元の神奈川から、レコード会社のスタジオがある渋谷まで通い、
当時のディレクターさんに、メンバー3人共が、作詞・作曲、歌の面で
がっつりと鍛えられている時期でした。

当時のディレクターさんに、
「聖恵ちゃんも曲を書いてみたら?」
と提案をして頂いていた時期でもありました。

その渋谷にあるスタジオの防音扉の外の、
ほんの狭いスペースに座り込みながら、
この曲のメロディーと歌詞の原型が鼻歌で一緒に出てきて、
ノートに書き留めたという記憶があります。

当時は、昼間にスタジオに入って、
気付いたら次の日の朝や昼になっている事も、よくありました。

この曲を歌うと、東京の街の空が白んでくる情景や、
心細いけれど、これから何が始まるんだろう?と
期待する気持ちが入り混じっていた、
当時の心境を思い出します。

(吉岡)

 

2月25日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


42.「GOLDEN GIRL」

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最近金の値段が高騰してますね。
奥さん、「買い」ですよ!

(山下)

 

2月26日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


43.「ノスタルジア~Original Lyrics ver.~」

 

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「あなたを嫌いになる前に」
というワンフレーズだけを、メジャーリリース版では変えました。

インディーズバージョンを好きでいてくれた方々には
「なんで変えたんだ」と、なんども言われましたが笑。

今回のアルバムで念願(?)が実現です。

ワンフレーズ変えるだけで、
歌の余韻が伸びていく方向が、
ずいぶん違うものになるんですよね。
あらためて、歌詞って難しいものだなと感じました。

歌い直してくれた吉岡や、
この企画に賛同してくれたスタッフに感謝です。

(水野)

 

2月27日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


44.「白いダイアリー」

 

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この曲は、メロディーが先に浮かんできた曲で、
自分の中では歌謡曲っぽいイメージのあるこの曲に
歌詞を乗せていく作業が中々大変で、
曲の世界観を作り上げたうえで、

“いきものがかりのボーカリスト・吉岡聖恵に歌ってもらう”

というイメージで作っていきました。

作詞も歌入れも時間がかかったため、
歌入れを終えてレコーディングブースからくたくたになって出てきた私に、
ディレクターさんが

「今日はうなぎ食うか!」

と出前を取って下さったことも良い思い出です。(笑)

(吉岡)

 

2月28日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


45.「茜色の約束」

 

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ファイナルミックスの数、いったいいくつあったんだろう…
はかなく辛い思い出とともに…
や、曲は良いんだよ!こちらうちうちの思い出…

(山下)

 

2月29日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


46.「二輪花」

 

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コイスルオトメのカップリングなんですよね。

“二輪”花か。

山下はこういう少し気のきいた造語というか、
新語をつくったりするのが得意ですよね。

夏色惑星とか。

歌のなかに出てくる登場人物も、
なにか垢抜けている感じがするのは僕だけでしょうか。

映画『チェリーパイ』の主題歌で、
ブレイク直前だった北川景子さんが主演をされていました。
縁起をかついだわけじゃないんですが、
当時、やたらチェリーパイを喫茶店で食べていた記憶があります。

映画のなかで美味しそうに見えたんですよね笑。

(水野)

 

3月1日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


47.「my rain」

 

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この曲は、一見マイナスに思ってしまう“雨”をポジティブに捉えた、山下らしい一曲。
歌詞にも、

 “「今さら」なんて話じゃなくて「今から」だから素敵でしょう?”

 “お気に入りブーツで水たまり跳ねて”

など、前向きな言葉が並んでいます。

クラップの音も効いていて、
ストリングスの音が、この曲の世界観をドラマティックにしてくれているのも、
素敵だなぁと思っています。

憂鬱な気分の、雨の日にこそ聴いて頂きたい1曲です!!!

(吉岡) 

 

3月2日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


48.「最後の放課後」

 

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これ好きよ。

う~ん、青春青春。

当初、ぶっちゃけ曲のレンジが広すぎて揉めました。

だからサビからキーを変えました。


「だろうな(ニヤリ)」と思ったあなた、なかなか流石です。

(山下)



















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いきものがたり まとめ 12 (第17回) [いきものがたり]

 

2016年 3月1日~2日

第17回



『第17回 -前編-』

故郷で。


(396) 「SAKURA」がCMで流れ、少し話題になりはじめた頃。地元でもCD即売を兼ねた、ライブイベントをやろうということになった。どこがいいかとなって選ばれたのが「厚木サンパーク」という広場だ。

「厚木サンパークってところで、イベントをやることにした。地元だから、3人は知ってるよね?」そうスタッフに聞かれたが、全然わからない。「厚木サンパーク?そんな公園あったっけ?」よくよく聞いてみると、どうやらバスロータリーの上の広場のことを言っているらしい。

普段は閑散としている場所だ。正直、やんちゃなお兄ちゃんたちが深夜にたむろしている光景しか浮かばない。「あそこ、厚木サンパークなんていう洒落た名前がついてるのか!」あんなところに果たして人が集まるんだろうか。地元を知っているからこそ、不安だった。

当日、都内からマネージャーとともに4人で車で厚木へと向かう。インターを降りたところでマネージャーが現地で準備している他のスタッフにもうすぐ着くと連絡すると電話口の声が慌てている。「やばいです。とんでもないことになってる。」

現地まで来てみると、バスロータリーの階段に人が溢れている。いままで、ここでこんな光景を見たことがない。「え?なんかあったの?お祭り?」「いや、うちらのライブに来てるひとだよ」「ええ、まさか」。そのまさかだった。階段を上がると、そこに2000人の市民がいた。

スタッフも誰ひとり予想していなかった規模の集客だった。バスロータリーの上に造られたその広場、冗談じゃなしに底が抜けるんじゃないか、大丈夫か?と心配になったほどだ。見たことのない光景。地元のひとたちの応援を、強く感じた瞬間でもある。

厚木でイベントをして、2ヶ月ほどの期間を経てから、海老名のショッピングモールでも同様のライブをした。そのときは5000人がそこに集まる。ステージで演奏をするのだけど、自分たちの背中側にもお客さんがいる。広場に人が収まりきらず、溢れているのだ。

即売会なので、ライブが終わるとすぐにメンバーが1枚1枚、手渡しでお客さんにCDを渡す。長蛇の列のなかに、高校時代の友人がいたり、お世話になったピアノの先生がいたり、はたまた家族がいたり、ようは知り合いがたくさんいた。つまりは、そこはやはり、我が街だった。

こうやって話していくと、なんだかすごく人気者になったかのようなエピソードだけれど、この頃はまだ、全国的な知名度は低い。当時から熱い声援で迎えてくれた海老名や厚木のみなさんには感謝するばかりだが、一歩、地元を出れば、まだまだ名は知られていなかった。

そんななかで、「全国ツアー」をしようということになった。サードシングルが出たばかり、まだファーストアルバムもリリースされていない頃。メジャーで世間に発表されている曲は、3枚分のシングル曲とカップリング曲だけ。そんな状況でワンマンライブツアーをやるという。

そもそも地方でのライブを、ほとんど経験したことがなかった。ツアーというものがなにかを、まったくわかっていない。神奈川や東京以外の場所で、自分たちのライブを見に来てくれるひとがいるのか、想像ができなかったと思う。

スタッフにツアータイトルを考えろと言われて、吉岡がさして時間も置かず「いきものがかりのみなさん、こんにつあー」とその場で答えた。「あはは。もう、それでいい」みんなで笑った。初めてのツアーが始まる。

 

ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。

『第17回 -中編-』はのちほど。

 

『第17回 -中編-』

こんにつあー。



(408) 今から考えればよくあの頃の知名度でうちの事務所もツアーをやらせたものだなと思うけれど、地方のライブハウスで鍛えられてこい、という意味もあったのだろう。ハイエース1台で、メンバーとサポートメンバー、マネージャーとPAスタッフ1名。機材も詰め込んで、全員で旅に出た。

旅に出る瞬間を覚えている。用賀のインターのあたりで、機材を詰め込んだ。座席の足元にもそれぞれ自分たちの荷物。元気だけはあった。そこから青森の八戸に向かう。いや茨城の大洗だったか。港がどこからだったか記憶があいまいだが、初日は北海道。つまりフェリーに乗り込む。

正直、楽しかった。全部初めてだから。ライブをしに、旅をする。それだけでワクワクしてしまう。北海道に自分たちのライブを待っている人がいる。それが信じられない。ま、チケットは半分も売れていなかったのだけど。

夜通しで海を渡るのだが、最初のフェリーの旅は、大部屋で雑魚寝だった。個室はない。吉岡も一緒。よく男連中に混ざってたくましく旅をしたものだと思う。とはいえ、男子たちは部屋とは別の、休憩スペースのようなところでずっと酒を飲んで過ごしていたのだけど。バカもたくさんした

ツアーで飛行機を使わせてもらえるようになるまで2、3度ツアーを回ったと思う。それまで何度かフェリーに乗ったが、修学旅行生の集団と一緒のときもあった。他の同級生のいないところで、意中の男子に告白する女子中学生をみつけ「リアルコイスルオトメだ!」とはしゃいだときもあった。

ツアーの初回公演は札幌のライブハウス。キャパは300人くらいだったろうか。そこに100人に満たないくらいのお客さん。それでも初ツアーということで、テンションだけは高かった。1曲目に選んだのはなんと「SAKURA」だった。

今でこそ、皆さんに知ってもらっている曲も多くあるけれど、当時はいきものがかりの曲で「聴いたことがある!」と言ってもらえる曲など「SAKURA」しかなかった。正直、「SAKURA」だけを聴きにきているというひとだっていただろう。それをいきなり最初にやり終えてしまう。

若くて、向こう気の強さだけは身の程を越えてあったのだと思う。「SAKURA」だけに頼ってたまるか。「SAKURA」以外の曲でライブを成立させてやる。と、その頃は思っていた。初めてのツアーなのに。本当に生意気だったなぁと思う。

幸いなことにホテルはビジネスホテルで、ひとり、ひと部屋を用意してもらえた。車中泊をするバンドも少なくないのに、そこについてはすごく恵まれている。

初回のツアーは公演数も少なかったのでそれほどでもなかったけれど、2年目、3年目のツアーは数も多く、数週間の長きにわたって東京を離れることも多かった。ホテルに着くと、みんなコインランドリーのある階を確認する。部屋につくなりダッシュだ。洗濯機の奪い合い。面白かった。

忘れられなかったのは福岡公演。東京から車で14時間ほどをかけての移動。会場は福岡 DRUM SON。実は最初のツアー、チケットが完売したのは東京と大阪の2公演だけで、とくに福岡は開催が危ぶまれるほど売れなかったそうだ。

さすがにワンマンを強行するのはやばいとスタッフは思ったらしく、地元のバンドを急遽ブッキングして、オープニングアクトとして出てもらった。こういうときほど、呼ばれた方は「関東の奴らに負けるか、なにくそ」と思うのか、20分の持ち時間を40分もやられてしまった。

ステージから彼らが降りてきたところを迎えると「あっためておきました」と皮肉たっぷりに言われてしまう。ワンマンをやろうとして威勢良く打ち出したはいいものの、それが身の程知らずと思い知らされて、急遽、頼んでいるこちらからしたら、頭を下げるばかりで、ぐうの音も出ない。

しょうがない。気をとりなおしてステージに向かう。照明がついて客席を見ると、一瞬で気づく。本当に客が少ない。ただでさえ小さなライブハウス。それが明らかに空いている。ずっとあとに聞いた話だ。売れたチケットはわずか10枚あまりだったらしい。そりゃ、ワンマンはできないわ。

それでも福岡のラジオ局の皆さんなどの関係者、オープニングアクトで出てくれたバンドさんのファンの方々。それらを足して、なんとか数十人のお客さんが目の前にはいた。「懸命にやるしかない」ステージにいる人間が思えるのはそれくらいのことしかないが、予想しない反応が起こった。

その数十人のお客さんが、空いている客席スペースのなかで、みんな一気に前に詰めてくれた。信じられないことに、この明らかに失敗しそうな空気のただよっている無名の新人のライブを、お客さんのほうから、盛り上げようとしてくれたのだ。

嬉しかった。その客席の意気に、未熟な僕らは、大いに救われた。懸命に、ただがむしゃらにやるだけのライブだったと思うが、忘れられないライブとなった。あれから福岡でのライブ会場が大きくなるたびに、あの日のことを、いつも、思い出す。

数本のツアーだったが、すべてが初めての連続だったその旅は、まだヨチヨチと歩き始めたばかりの新人の僕らを大きく成長させてくれるものだった。福岡のライブが終わったあと、現地のイベンターさんが言った。「以前、イベントで見たときと別人だった。なにがあったんですか?」

できないことが多かった。(それは今でもさして変わらないのかもしれないが。)でも、だからこそ、すべてを糧にして、ありあまる体力だけを動力に、前に進めるだけ進んでしまおう、そんな気持ちが、3人にもチームにもあったのだと思う。

 

ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。

『第17回 -後編-』はのちほど。

 


『第17回 -後編-』


四国にて、同志と出会う。

 

(427) ツアーとも並行して、この頃は全国各地のライブイベントに、呼んでもらえれば喜んで、せっせと顔をだしていた。あるとき四国のラジオ局の主催で、現地のライブハウスを数組の出演者でまわるイベントに出向いて行った。

四国でのライブは、そのときが初めてだった。初日の会場は、徳島ジッターバグ。200人程のキャパのライブハウスだ。当日の朝、ライブハウスの前でその日対バンする、ある3人組グループと出くわした。目立っていた。メンバーのひとりがお坊さんが被るような笠帽子をつけていたからだ。

3人とも異様に愛想がよく、声がでかい。「はじめまして。ファンキーモンキーベイビーズです。よろしくお願いします」「はじめまして、いきものがかりです、よろしくお願いします」それが彼らとの出会いだった。笠帽子をかぶったDJケミカルさんは階段で座禅を組み、精神統一をしていた。

日替わりだったと思うが、他に数組のメジャーアーティストと、現地の四星球というバンド(←いまでも忘れられないくらい面白いバンド)が参加していた。しかし、これが残念ながら、またもや客があまり入っていない。

当時、同期デビューで言えば絢香さん、デビューは少し早いがレーベルメイトで同時期に売り出されたアンジェラ・アキさん、すでにインディーズでミリオンを飛ばし、鳴り物いりでデビューしたAqua Timez。同世代のスターたちが多くいた。

売れる、売れないの話を、自分の立場の人間がするのはせせこましいとは重々承知しつつも話すが、デビューした数組のバンドが集まってもライブハウスが半分も埋まらない。自分たちはまだ全然、世の中に受け入れられていないんだ、と思わされる機会は(恐ろしいことだが)慣れるほどあった。

その四国のイベントも、そう感じさせられる機会だった。ま、それでも懸命にライブをやることに変わりはない。出番が遅かったので、先に対バン相手のライブを見る機会を得た。朝に会ったファンキーモンキーベイビーズのライブを、空いている客席の後方で見た。

衝撃だった。

彼らの解散ライブを東京ドームで見た。その東京ドームでのライブと、あの四国で初めて見たときのライブ。彼らのライブに対する姿勢は、最初から最後まで変わることがなかった。恐ろしいほど、全力投球。数十人の客にも、数万人の客にも、彼らは拳を振り上げて叫んでいた。

しかも楽曲が素晴らしかった。「恋の片道切符」「そのまんま東へ」「西日と影法師」当時、ライブハウスで聴いたのはそれらの曲だったと思うけれど、どれも耳をしっかりとつかんで離さないもので、ライブ直後に自分は出演者なのに物販へ行き、アルバムを買った。

楽屋に戻ると、ファンキー加藤くんがパンツ1丁でパイプ椅子に座っていた。息は切れ、前かがみに頭を下げて腰を掛け、今にも倒れこみそうな顔をしている。プロレスラーの試合後の映像を見ているようだった。「なんなんだ、このひとたちは」びっくりした。

「なんでこんなに素敵な曲を歌って、こんな凄いパフォーマンスをするひとたちが、売れてないんだろう」自分にとって、それは少しショックなことだった。でも、それがまったくの杞憂だったことは、その後の、彼らの歴史がもう証明したけれど。

別に打ち上げで仲良く話したわけでもなかった。でも、お互い、お茶の間に近いところを戦場として、同じような言葉を世間にぶつけられながらも、それぞれにボールを投げて、世に歌を届けていった。いつしか、自分は彼らを特別な意識を持ってみるようになった。同志だと、そう思った。

ファンモンが渋谷AXをやったと聞いたら、なにを!と思った。じゃあこっちは渋公でライブだ!と息巻いていたら、今度は向こうが武道館を決めたという。別に会場の大きさを競っているわけじゃないけれど笑。彼らが頑張っていると、不思議と勇気がわいて、頑張れた。

楽天の田中投手が日本シリーズの最終戦で登板したとき球場に流れた「あとひとつ」あのシーンを見たときは、泣いた。ファンモンのすばらしい曲たちは何曲も世の中に届いていったけど、その象徴みたいだった。あえて言うなら、やっぱり”俺ら”は届けられるじゃないか。そう思えて、泣けた。

解散後も、ファンキー加藤くんは、自分が憧れている彼のかっこいい背中のイメージ通り、挑戦を続けた。そしてすばらしいことにモン吉さんも、また新たに音楽活動をご自分のペースで始めるという。自分たちも彼らに胸を張れるよう、頑張りたいと、いつもそう思う。

 

今日はここまで。乱文、長文、お粗末様でした。

次回は『第18回』

 

 

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遂にここまで来ました 笑

 

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ついにここまで来ました 笑笑

2月29日は吉岡聖恵さん、8回目のバースデー
と、いうことで、渋谷にてサプライズパーティーが
敢行されました。

今回のサプライズは、まあまあうまくいったようで
良かったですね♬

聖恵ちゃん、32歳、本当におめでとうございます

 

 

 

 


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いきものがたり まとめ 11 (第15~16回) [いきものがたり]

 

2月8日 第15回

 

『第15回 』

桜が咲き始めます…。

 

(362) 「SAKURA」がリリースされる数日前、はじめて、テレビの全国放送に出演した。NHKのポップジャムだ。場所はNHKホール。「ここで紅白歌合戦もやるんだよ」と大人たちは緊張する僕らにハッパをかけた。

楽屋が大部屋で、サポートメンバーも一緒だった。ドラムを叩いてくれた原治武さんがそこで、まじまじと水野の顔をみつめ「まぁ、よく、ここまで来たよね。よかった」と言ってくれた。

ジブさんは厚木のライブハウスにいた頃から、僕らを知ってくれている地元の先輩だ。路上ライブで歌っている姿もみている。それが数年経って、あのわけのわからない大学生たちが、NHKのテレビの楽屋まできたことを、先輩として喜んでくれた。

いざ本番となって舞台袖で待つ。女性アナウンサーが自分たちを紹介してくれる。「つづいては、期待の新人。いきものがかりの皆さんです。」NHKホール3000人の観客に名前がコールされた。すると予想もしないことが起きた。客席から、笑い声が聞こえてきたのだ。

その日のNHKホールに僕らを知っていたひとなど、ほとんどいなかったのだろう。「いきものがかり」という名前を、初めて聞くひとばかりだったはずだ。自分たちでも認める、変なグループ名。観客の皆さんは、そのグループ名に「なんだそれ!」とおもわず笑ってしまったらしい。

今でも、NHKホールでの出演のときに、拍手だったり、歓声だったりをもらえると、そのときのことを思い出す。いきものがかりという名前を、知ってもらえるようになったんだなぁ、と毎度、思う。

「SAKURA」がリリースされて、1週間。はじめてランキングというものが出た。今にくらべれば、当時はまだCDという商品が売れていた頃だと思う。ランキングというものにも、今よりもう少し、意味があったか。初週のランキングは40位だった。

と言っても、そのランキングが高いのか、低いのか、正直当時の自分たちにはわからなかった。本家のオリコン(見たことあるひといるだろうか。業界誌。)は、見開き2ページで1位から100位までが載っている。すると当然、左ページには、1位から50位までが載ることとなる。

業界のひとは、新人はまずこの「左ページ」に載ることを目指せという。初週で40位だった僕らは、その「左ページ」に載れたわけだ。「左ページ載れたじゃないか、まずはよかったな」と言われるが、本人たちはやっぱりよくわかっていない。気にする余裕がない。はぁ…と頷くだけだ。

キャンペーンが始まって、日々をこなすことでいっぱいいっぱいだったと思う。もう次のシングルのレコーディングも始まっていた。今から考えれば、もっと先行きに不安になってもいいはずだったと思うけれど、よくも悪くも、いろんなことがよくわかっていなかった。

「SAKURA」が使われた電報のCMは流れ続けていて、3月の中頃まで流れると聞いていた。わからないなりにも「CMが終わっちゃったら、聞いてもらう機会も少なくなっちゃうのかなぁ」とぼんやり考えていた。

ちょうど同じころ、テレビのなかで、ワールドベースボールクラシックが始まる。初めての大規模な野球の世界大会。イチロー選手なども出場して、日本では大変な注目度だった。子供のころから野球好きな自分も、もちろんそれを見ていた。

いくつか劇的なドラマもあって、日本代表は準決勝へと勝ち進む。その試合中継だ。両代表チームの国旗の掲揚が終わり、さぁこれから試合だというところで、いったんCMになった。びっくりした。自分たちの曲が、流れてきた。電報のCMが流れたのだ。

「こんなタイミングで流れて、びっくりだなぁ。」と、それが自分の行く末を変える”事件”であるとは、そのときはまったく思わず、ぼんやり口を開けてテレビを見ていた。CMはその後の決勝の試合中にも流れた。「いいときに流れたね!」と、チームは無邪気に喜んでいた。

3月26日…だったと思う。その日僕らは、初めて路上ライブをした相模大野の駅に、巨大な桜のオブジェがあるということで、その前でデビュー曲を歌わせてもらうというイベントに出演した。パフォーマンスが終わって楽屋に戻るとスポーツ新聞が置いてあった。

僕らのことが記事になったという。ぱっと新聞を開くと、大きく「いきものがかり」という文字。WBCの中継でCMが流れたことをきっかけに、「SAKURA」に注目が集まったことが、でかでかと記事になったのだ。「問い合わせ殺到!」という、ベタすぎる文字がそこにあった。

「何か変わりそうだなぁ」と、まるで他人事のように楽屋でその記事を眺めていたのを覚えている。のんきだった。その夜に、その記事がヤフートップにあがった。世の中のひとの多くにとって、この時が「いきものがかり」というグループ名を、初めて目にした瞬間だったんじゃないだろうか。

親父は、ヤフートップに僕らの名が上がったときの、パソコンの画面を印刷してた。嬉しかったんだろう。

なにかが変わっていくことを意識するほどの余裕が、当時の3人にあったとは思えない。よくわからないままに、走り出してはいた。40位だった「SAKURA」のランキングが、7週連続で上がっていった。それは”ありえない”ことだった。でもそのときは、その意味をわかっていなかった。

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第16回』

 

 

2月20日 第16回

 

『第16回』

あの階段と、あの長椅子と。

 

(381) デビュー曲の「SAKURA」から大ブレイク…というフレーズで紹介してもらうことがたまにある。たしかに「SAKURA」は自分たちを知ってもらうきっかけになったけれど、実は、輝かしいビックヒットとまで言えるかというと、必ずしもそうではではなかったと思う。

オリコンランキングでいえば、最高位は17位。ベストテンにも入っていない。歌がつかわれた電報のCMは、東日本地域だけでの放送で、関西や九州では当初、ほとんど曲は知られていなかった。

それでも多くのひとにいまだに「あのころ、よく聴いたよ」と言ってもらえるのは、デビュー初期に、全国各地でキャンペーンをして、何度も人前で歌わせてもらったことと、そして幸運なことに、子供のころから憧れていた多くの音楽番組に出演を果たせたことが大きかったのだと思う。

当時、原宿のラフォーレの前で小さなステージを組んでイベントが開かれることが多かった。僕らもデビュー曲をプロモーションするため、急遽、そのラフォーレ前のステージで歌わせてもらうことになった。神奈川の片田舎の人間にすれば「原宿のラフォーレでライブ!?」と戸惑ったものだ。

都心でのライブということで、WBCの件で少し話題になったこの変な名前のグループの姿を、一度チェックしておこうと、いろんなひとたちが見に来てくれていたらしい。緊張したライブを終えて、ステージを降りると、ひとりの男性がそこに立っていた。

スタッフが早口で男性を紹介してくれたが、こちらはステージ直後で、なんだかよくわからないまま、挨拶をした。その男性が驚くことを口にした。「21日のミュージックステーション、出演してください。」ミュージックステーションのスタッフさんだった。

時を振り返って高校時代。吉岡はミュージックステーションを見ることができない頃があったと言う。笑ってしまう話なのだけれど、なぜかというと、「悔しくて、見れなかった」のだそうだ。なんで、そこに自分がいないんだろう、悔しい!と思っていたらしい。

高校生くらいになると、若くしてデビューした同世代のシンガーたちも当然ながらテレビに顔を出すようになる。「なんであそこに私はいないんだ!」憧れが強すぎて、そのステージが自分にとっては、まだ手の届かない夢でしかないことが、10代の少女なりに悔しかったそうだ。

当日、早朝にテレビ朝日のスタジオに入ると、文字通り”夢にまで見た”あの階段と、長椅子がそこにあった。リハーサルでそこに腰をかけると、なにやら隣の吉岡がプルプル震えている。

「お前、もう泣いてんのかよ!まだリハーサルだよ、はえーよ!」「だってさぁ…」笑った。スタジオはテレビで見るよりもずっとコンパクトで、そこにテレビでは姿の見えない100人規模の大勢のスタッフさんがセットの組みかえを忙しく行っていた。

「SAKURA」を歌った。当時は、少しでも覚えてもらいやすいようにと、吉岡は黄色いTシャツとジーンズというスタイルでどんな番組にも出ていた。スタイリストなどがつく機会はまだ少なく、衣装は自前のことも多かった。吉岡は古着屋を回ってTシャツを探したりしていた。

本番中、短いトークが終わり、さぁこれから自分たちが歌うというところでCMが入る。リハーサルから泣くぐらいだから、もちろん緊張しているのだけれど、CM中、吉岡が何を思ったか隣に座っていたタモリさんに「タモリさん!パワーください!」といきなり手を差し出した。びっくりした。

すると、もっとびっくりしたことに、タモリさんは「おう。」とさして驚くこともなく、吉岡の手を握ってくれ、念を送るようなポーズをしてくれた。そのまま自然と、今度は吉岡だけでなく、水野、山下にも同じように手を握ってくれる。感激してしまった。嬉しかった。

番組が終わると、出演者には通称Mステティッシュと呼ばれる、記念のティッシュボックスが渡される。「これが、あのMステティッシュか」と素直にはしゃぐ。まさに夢のような時間だったわけだが、家に帰ると急に不安になってきた。

ひとりぐらしを始めたばかりの都内のアパート。近くに線路があり、電車が通ると少し揺れる。さっきのキラキラしたテレビの世界から、急に現実に戻ってきた。Mステティッシュを眺めながら、えらいことになったなぁ、食っていけるのかなぁと、ひとりきりの部屋で、ぼんやり考えていた。

 

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第17回』

 

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2月15日は超ばかり発売一か月前だからでしょうか?
FMヨコハマを一日ジャック

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お疲れですかね~[いい気分(温泉)]?

 

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リーダーツイ 「このときに匹敵する、しっくり感。」

 

さまざま水面下でなにやらやっているようであります。。

いよいよデビュー10周年日まであと30日切りましたね~?


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まとめ③ 超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」 25~36 [超セルフライナー]

 

2月8日 

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

25.「コイスルオトメ -激情編-」

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はい、要は「ライブアレンジバージョン」です。

なんかかっこよく??言ってごめんなさい。

(山下)

 

 

2月9日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

26.「涙がきえるなら」 

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3人でつくった。っていうのが、大きなトピックですよね。

僕は吉岡がつくったメロディに、メロディを加えたんですけれど、
これがなかなかに難しくて。

彼女がつくったものの空気感ってあるじゃないですか。
メロディとして間違ってはいない、
おかしなことにはなってはいないんだけど、

なんか空気感がバラバラで違和感がある。

となったらいけないわけで。

とにかく何度も何度も彼女がつくったメロディを歌って、
体に染み込ませながら書いたのを覚えています。

(水野)

 

 

2月10日

超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 27.「会いにいくよ」 

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この曲は、アルバム「NEWTRAL」に収録されている曲です。
「NEWTRAL」のツアーで演奏していた事もあり、個人的には、
ツアーで演奏して歌っていた時の景色を自然と思い出す1曲です。 

優しくて力強い1曲、という印象があります。

(吉岡)

 

 

2月11日

【超セルフライナーノーツ“~本日の一曲~”】

 28.「Good Morning」 

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第二回目のツアーの一曲目、という印象。

 あの頃はまだ、コースター(マイクロバス的な)で全国を巡りました。

(山下)

 

 

2月12日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 29.「ふたり」 

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それまでのいきものがかりより、少し、
対象年齢を上げたような楽曲かな、と思います。

ディレクターが当時

「吉岡のボーカルで、まだみせてない部分をこの曲でみせたい」

みたいなことを言っていた記憶があります。

つくった人間としてあらためて振り返ってみると、
ちょっと歌謡性を出しすぎちゃったかなって、思います笑。

(水野)

 

 

2月13日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】 

30.「甘い苦い時間」

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 この間、久し振りにこの曲を聴いて、 

「声が若いっ!」

って思いました。(笑) 

歌のハモりも含めて、ボーイッシュと言いますか。

この曲は、私達の2枚目のシングル「HANABI」の
カップリング曲としてリリースされていて、
山下が作詞・作曲しています。 

当時から、「爽やかで、いい曲だなぁ!」という印象でした。

 真っ直ぐで、透明感のある曲なのではないかなぁと思っています。

(吉岡)

 

 

2月14日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

31.「1 2 3 〜恋がはじまる〜」

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実はリズムが大変。
三拍子?と思いきや、四拍子に戻ります。(山下)

 


2月15日

 【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

32.「じょいふる」
 
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自分が書いた曲で、世の中のみんなが踊ってるって、
なかなかに最高ですよ。

この曲で経験させてもらったことは、
その後の自分の将来に大きく影響を与えたと思います。
幼稚園児とかが、たぶん意味もわかんないとは思うんですけれど、

じょいだー!

って言って楽しそうに踊ったりするんですよ。
そういうのが実は、いちばん嬉しいというか。

なんか言葉を越えた感じするじゃないですか。

あまりに突飛な曲だったんで、
曲出し会のときにみんなに聞かせたら、
驚きすぎてノーリアクションだったのを覚えています。

それでもいろんなめぐりあわせでリリースできることになって。
本当にシングルで出すことができて、よかったなぁ。
 
(水野)
 
 
 
 
2月16日
 
 
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 
33.「キラリ」
 
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この曲は、映画「アオハライド」の主題歌としてつくらせて頂いた1曲です。

初々しい恋心が描かれていて、
恋をしている方には、
この曲を聴いて気持ちを高めて頂けたら嬉しいですし、
恋をしていない方にも、
ドキドキしながら聴いて頂けたら嬉しいです!!!
 
 
(吉岡)

 

 

 

2月17日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

34.「心の花を咲かせよう」

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高校サッカーのテーマソング。

今年も盛り上がりましたね。
 あの年は大迫選手が大活躍でした。

(山下)

 

 

 

2月18日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

35.「NEW WORLD MUSIC」

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本当は、違うタイトルだったんですよね。

レコーディングも全部終わっていて。
そのタイトルで出すつもりだったんですが、

震災が起きて。

なんの運命か、歌詞のなかに

「NEW WORLD MUSIC」

という言葉があったんです。


 あの震災が起きた直後に
「NEW WORLD」なんて言葉を使える空気は
まったく無かったと思うんですけどね。

でも、それが絶望的に小さいものであっても、
「NEW WORLD」という単語に当時僕自身は希望を感じたんです。

だから、スタッフに頼んで、あえてタイトル変更を提案しました。
 それが正しかったのかは、いまだにわからないですけどね。

「笑ってたいんだ」とともに、大切な曲ですね。

(水野)

 

 

2月19日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

36.「いつだって僕らは」

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というタイトルの曲を高校のとき先輩が書いていたので、
タイトル引用させて頂きました。

ありがとう、先輩。

 

(山下)

 

 

 

 

 

 


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いきものがたり まとめ 10 (第14回) [いきものがたり]

 

『第14回 -前編- 』

 今につながる出会いを経て。やっとデビューが見えてきました…。

デビュー曲の「SAKURA」は島田昌典さんにプロデュースしてもらうことになった。前にも触れたが、いきものがかりはデビュー前の1年間ほど、デビュー曲の選定でかなりの迷走をして、デビュー曲候補とされて実際に制作が行われながらも、話が前に進まなかった曲が、いくつかあった。

島田さんにプロデュースをお願いしたのも、実は「SAKURA」が初めてではなく、その前に「ノスタルジア」というインディーズ時代の代表曲を託していた。これは実際にデビュー前にレコーディング(歌入れをのぞく)が行われた。数年後に時をかけてリリースされた。

島田さんのお宅にはプライベートスタジオがあって、そこで会ったのが初対面だったと思う。自宅にスタジオがある(しかもめっちゃおしゃれ!)というのが、まだ学生だった僕らには信じられなくて、キラキラした憧れを、目の前で見させてもらっている感覚だった。

レコーディングのサウンドチェックで、何気なくaikoさんの楽曲のイントロを島田さんがピアノで弾いたときは、声も出なかった。ふりしぼって「うわ…本物だ」とこぼすのがやっとだ。メンバーと「(い、い、いま、聴いた!?)…!!!」と目を合わせた。

島田さんに手掛けてもらった初めての曲。「ノスタルジア」のレコーディングのとき。こちらは終始、緊張していたのだが、作業の終わりかけに島田さんが突然こちらに振り返って「いい、歌詞だねぇ…」と言ってくれた。ボソっと言ってくれたその姿が、嬉しかった。

デビュー曲”候補”だけが増えていく1年間だったが、そのなかで、いまでもお世話になっているプロデューサーの皆さんとの出会いも多くあった。田中ユウスケさんや、江口亮さんも、当時に出会っている。

田中さんはインディーズ時代の「コイスルオトメ」のレコーディングが出会いだったと思う。はじめに事務所の会議室へ打ち合わせに来てくれたのだが、おしゃれなジャージ姿が印象的で、まさに新進気鋭のクリエイターという雰囲気が漂っていて、かっこよかった。

そのくせ、こちらが恐縮するほど低姿勢で、大人たちがどんな無理難題を言いだしても笑顔で「ですよねぇー」と言って、華麗にボールを投げ返してしまう。本人は「やめてくださいよぉ〜」とおっしゃるかもしれないが、天才なんだと思う。

「じょいふる」は田中さんの存在なくしてヒットしなかった。「じょいふる」をあのかたちで出せたことは、自分たちの将来を変えてくれたと思う。

江口さんと初めて出会ったのは下北沢の喫茶店だ。「月とあたしと冷蔵庫」という曲をプロデュースしてもらうことになって、その打ち合わせだった。

なにを話したかは全然覚えていないけれど、とにかく会話の80%くらい江口さんがずっとしゃべっていた気がする。江口さんが帰ったあと3人で顔を見合わせて「よくしゃべるひとだったね」と言い合ったことを覚えている。

江口さんと僕らは、年齢がそれほど変わらない。だから本当に良き先輩、お兄さんのような存在だった。ディレクターに厳しく鍛えられていた僕らを見て、気にかけてくれたんだろう。ずいぶん優しくしてもらった。先輩バンドマンとして色んなアドバイスもくれた。

当時は3人ともまだ海老名、厚木に住んでいた。レコーディングが終わるとそちらに帰る。作業が朝方まで続いた終わりに「送ってってやるよ」と、なんと江口さんが車で3人を海老名まで送ってくれたこともあった。

のちに「ブルーバード」や「気まぐれロマンティック」など、自分たちの代表曲と呼べる作品も、江口さんに手がけてもらった。おこがましいかもしれないけれど、戦友と呼べる先輩だ。

デビュー前に、亀田誠治さんとも出会っている。 最終的に「SAKURA」のカップリング曲となった亀田さんのプロデュース曲「ホットミルク」は、デビュー曲の最有力候補だった。レコーディングしたときは、自分たちはこの曲でデビューするのだと思っていた。

僕らの世代で、亀田さんが手がけた音楽に影響を受けていないひとはいないだろう。水野なんかは高校時代、ノートの落書きに「作詞作曲 水野良樹 編曲 亀田誠治」と夢を書いていたくらいだ。亀田さんの作業スタジオの玄関先で、ご本人の笑顔を初めて見たときは、震えるようだった。

亀田さんとの初対面の日、吉岡はお母さんに持たされたお土産を持参していた。厚木の鮎モナカという、どこの田舎にでもなにかひとつはある、いわゆる地元の名物菓子だ。不躾だったのだと思うのだけど、亀田さんはそのときのことを後になるまでずっと覚えていてくれて、笑ってくれた。

今だから言える話だけど、初めて亀田さんにプロデュースしてもらえるのが自分の書いた曲ではなく山下の曲だと知って、当時はちょっぴり悔しかったものだ。まだ若かった。「ホットミルク」から数年間、2度目の機会は巡ってこなかった。「風が吹いている」まで辿り着くのはまだ先のことだ。

 

ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。

『第14回 -中編-』はのちほど。

 

『第14回 -中編- 』


もうちょっとです。もうちょっとで、デビューなのです。

デビュー前に、3人で観覧したライブで、忘れられないものがふたつある。ひとつはYUKIさんの武道館ライブ。もうひとつは、サザンオールスターズの皆さんの横浜アリーナ年越しライブ。

デビューが近づいてきて、これから世に出る3人に、少しでも勉強になればと思ったのだろう、大人たちが、いろいろなつながりのなかでライブを見せてもらえる機会を与えてくれた。

吉岡にとってaikoさんやYUKIさんの存在は、もちろん大きなものだ。路上ライブではaikoさんの「カブトムシ」を何度も歌ったし、高校では「ジュディマロ」という本物をもじった名前のコピーバンドをやっていた。吉岡の世代の女の子の多くがそうであるように、無邪気に憧れた。

日本武道館という場所を訪れたことだって数える程度しかなかった僕らにとって、YUKIさんの武道館ライブは、文字通り圧倒的なものだった。ちょうど「JOY」がヒットした頃だ。目の前の座席にはYUKIさんのMV衣装を完璧に真似て踊りまくるファンの皆さんが、大勢いた。

YUKIさんの一言、一言に、悲鳴のような声があがる。ここまで人々を熱狂させるものなのかと。説明するまでもないのだろうけれど、正真正銘の”カリスマ”のライブだった。

帰り道、あまりの凄さにうなだれて水野は呟いた。「いやぁ…これは勝てない…。勝てっこない…。」すると吉岡がこちらにキッと振り返って、なんともすごいことを言う。「そんなこと言わないで!勝たなきゃいけないんだから!!がんばんなきゃいけないんだから!」と怒る。

吉岡が背伸びをしたことを言っているようだが、つまるところ水野も、YUKIさんと張り合おうなんて、身の程しらずも甚だしいことを考えたうえでこの言葉を吐いているわけで、今から振り返れば恥ずかしい会話だったかもしれない。

でも二人ともデビューするということは、世に出るということは(「勝つ、勝たない」という言葉が適しているかは別にして)自分たちが憧れるこんな先輩たちとも、ちゃんと向き合えるような存在になる覚悟を、持たなきゃいけないとは、思えていたのだと思う。その覚悟は、必要なものだった。

不恰好で世間知らずだったけれども、その熱い意気だけは、無駄に心からはみでていた。そんな吉岡と水野だったのだと思う。ちなみに、山下はあの頃から、ポーカーフェイスだった。

2005年の末だ。来年の春に、自分たちは世に出るのだと心に決めている。そんな年末。横浜アリーナの立ち見席で、サザンオールスターズの皆さんの恒例の年越しライブを見た。

老若男女、全世代のひとたちが来ていた。徹頭徹尾、エンターテインメント。楽しくて、キラキラしていて。誰もが知っている曲なのに、歌詞がちゃんと表示される。桑田さんは「ありがとうね!ありがとうね!」と盛んに感謝の言葉を口にする。

うわぁ、これを目指せばいいんだ。理想が、ここにある。そう思った。

いまだにはるか遠いところにある背中で、目指しているなんて言葉をつかうことも、今はおこがましいしなと思う。加えて、いろいろなことを経験して、自分たちが理想とする姿も変わっていった。追いかけるのではなく、自分たちでつくらなきゃならんのだと、今はその現実に息を切らしている。

ただ、あの日、あの場所で、あのライブを観れたことは、ほんとうに幸運だった。「心を込めて花束を」が演奏された。いつか自分もこの歌のように、どこか遠くまでたどり着いた先で、感謝を述べることができるだろうかと、ぼんやり、そう思っていた。




ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。

『第14回 -後編-』はのちほど。




今日中にデビューさせたい…。長い…汗。すんません…。

「第14回 -後編-」

デビューです。SAKURAの、マスターテープ。

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デビュー曲「SAKURA」は、リリースが決まったときはノンタイアップだった。もう楽曲の強さだけに賭けて、とにかく一度世に出してみよう。そんな風な心境に、なっていたと思う。

だがチームのスタッフは、それでもあきらめず、どうか3人のデビューが少しでもよいかたちになるようにと、ギリギリまで頑張ってくれていたようだ。突然、電報のCMで、「SAKURA」が使われることになったという知らせが入ってきた。

”抜擢”だったのだと思う。もっと名のあるひとの曲を使うのが当然だったはずだ。地元の神奈川でも大した知名度がなかった僕らのような無名の新人を、なぜか使ってくれた。聞けば、とにかく曲を気に入ってくれたという。一番、うれしい話だ。

3月の初旬頃だろうか、CMが流れ始めた。いつも見ているテレビのなかから、自分たちの曲が聴こえてきて、うれしいというより、少し不思議な感覚だった。親戚からはそれこそお祝いの電報が、送られてきたものだ。そのCMが人生を変えることになるのは、もう数週間後のことだ。

 

デビュー日はFM横浜の楽屋で迎えた。

 

当時、僕らはFM横浜でレギュラー番組を持っていて、放送日が火曜日の深夜だった。CDのリリースは水曜日。つまり日付が変わる瞬間は、FM横浜にいた…ということになる。

CMが少しずつ流れ始めていたけれど、別になにかが変わったわけでもまだなかった。世の中の注目を浴びて、期待の大型新人、待望のデビュー!!という感じではまったくなかったので、正直、リリース日はあっさりと、ひっそりと、迎えていたというのが正直なところだと思う。

その後、10年間をともに戦うことになるマネージャーの加藤さん。プロモーターの栗原さん。そこにいたのは、数人のスタッフと、メンバーだけだったと思う。加藤さんは初代マネージャーから、現場をまかせられて、まだ数ヶ月の頃だったと思う。ちょうど今の僕くらいの年齢だったろう。

栗原さんなども、担当を言い渡されて、数日前に着任したばかりだったはずだ。まだ会話もそれほどしていない頃だったか。今では自分たちの作品を世に届けてもらううえで、もっとも信頼しているチームスタッフのひとりだ。熱い戦友である。

そんな感じで、今から考えれば、あのときは、まだなにも始まっていなかった。ほんとうに、なにも。わくわくして、はしゃぐ…という風でもなかった。ただ、静かに、やっと始まるんだなぁ…と。

番組の放送を終え、楽屋にいくと、FM横浜のディレクター加藤さん(マネージャーと同じ苗字!)がお祝いにシャンパンを用意してくれていた。紙コップで、それぞれに分けて、みんなで静かに乾杯した。たぶん、あの乾杯は、一生忘れないだろう。

デビューシングルの盤面に、メンバーでお互い、サインをしあった。水野は、吉岡と山下にしてもらい、他の二人もそれぞれ自分以外のメンバーにサインをしてもらう。そのCDを、お互いに記念として、持った。

水野はたぶん実家に帰ればあると思う。山下は「どこにやったっけかな?」と、とぼけている。3人のなかで唯一、吉岡が、そのCDをことあるごとによく眺めていたという。その話を、最近になって聞かせてくれた。

サインの横にメッセージが書いてあったそうだ。「10年後もCDを出しましょう。…って、リーダーの字で書いてあるんだよ。ああ、そういえば、これ、もうそろそろ叶うんだなって」書いたことを忘れていた。でも、どうやら吉岡が言うようにその目標は、あとちょっとでかなう。

その言葉を書いてから、もうすぐ10年になる。2006年3月15日。いきものがかりは「SAKURA」で、静かに、デビューを果たした。

 

今日はここまで。乱文、そして長文、お粗末様でした。

やっとデビューまで来れました。とほほ…笑。

 

次回は『第15回』

 

 

おまけ

@abemitsuyasu 僕のCDには「リーダーよ、永遠に」っていう、よくわかんないメッセージが聖恵の字で書かれてました笑。

 

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超ばかりもいよいよ完成のようです!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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