SSブログ

いきものがたり まとめ 9 (第13回) [いきものがたり]

 
2016年1月27日
 
第13回
 
 
 
『第13回』

今日はすこし横道にそれて、デビュー前夜の頃。…の自分語りです。
 
 
大学では社会学部に籍を置いていた。なにを勉強したのですか?と聞かれると「はて。なにを勉強したんでしょう…汗」と困ってしまうほどには不勉強な学生だったが、学部の授業に加えて、教職課程を受講していた。
 
事務所にも入り、音楽の道で生活していくことを表明しはじめた3人に対して、それぞれの親の姿勢は三者三様だったと思う。うちの両親はというと、シンプルに反対だ。
 
就職活動をしたことがないので内実を知らないが、大学3年になると、どこで個人情報を得たのか、いろんな企業やら、就活支援サイトやらからのダイレクトメールが自宅に届く。はなから見る気がないのだけど、それを親がご丁寧にも業種別に整理する。
 
家に帰って部屋に戻ると、業種別に整理された就職案内のチラシが、机のうえにボンっと束になって置いてある。パソコンを開くと、海老名市役所の就活案内ページがブックマークされている。頭ごなしに何かを言う親ではない。親なりのアピールだったのだろう。
 
子供の頃から「勉強しろ」と言われたことは一度もなかった。一生の趣味になるからと、ギターを持つことも早くから許してくれた。ただ、音楽を仕事にしたいと言うと、顔色は曇った。「趣味であることと、仕事にすることとは、違う」と。
 
別に生活で苦労をした覚えはない。自分は恵まれていたと今でも思っているが、それは親が、家計のことを息子に悟られぬよう、ぎりぎりのところで踏ん張っていたからだというのは、恥ずかしながら社会人になってから気づいた。
 
どこの家庭もそうなのかもしれないが、自分がした苦労は息子にさせたくない。大学に行きたかったが行けなかった自分。ピアノを習いたかったが習えなかった自分。それを可能な限り、息子の人生では叶えてあげたい。そのうえで自分たちより、安定した生活をしてほしい。
 
それでも「とはいえ、最終的にはあなたの人生だから、あなたが自分の責任で選びなさい」と言ってしまうのが、うちの親の優しい「甘さ」なのだが、音楽の道に進むうえで、親が出した唯一の条件が「教職免許」をとっておくことだった。 
 
教職免許だけでも持っておけば、たとえ音楽の道で倒れても、つぶしがきく。そういう論理だった。厳しいご時世、そんな単純なことではないと思うし、親も薄々、それはわかっていたとは思うが、つまるところ、少しでも息子を許せると思える材料が欲しかったんだと思う。
 
順調に教職課程も進んで、残すところ教育実習だけとなった頃。3年の終わり頃だったろうか。実習の受け入れをしてもらうために母校の厚木高校を訪れた。だがこの厚木高校、一応、進学高ということもあって、実習を申し込む卒業生がとても多い。
 
全員を受け入れることはできないので抽選で実習生を決めます。となってしまった。ちょうどその頃、事務所にも入り、レコード会社との契約の話も始まっていた。正直、自分が教職につく未来など、まったく見えていない。となりには、同級生の希望者たちが並んでいた。
 
彼らの多くは、真剣に教職を目指している。そのなかで自分は、彼らとは別の道に心をとらわれているのに、席についている。外れてしまえばいいが、万が一、抽選で自分が選ばれてしまったら、選ばれないひとが出て、ずいぶん失礼な話となる。ここに座っていていいのか。
 
 …と、話せばずいぶんと正論のようだが、結局、のがれる理由をさがしていたのだと思う。抽選がはじまろうとしたときに、その場で「辞退します」と告げて、帰ってきてしまった。実家で、始終を説明した。いやはや、母は泣いた。
 
不本意だが、この息子の性格を思えば、決めてしまったからにはもう音楽の道に意地でも進んでしまうだろう。本心では、自分の人生は自分で決めさせてやりたい。だからその無茶な選択を、親として許してあげられるような、ほんの少しの理由くらい、なんとか残しておいて欲しい。
 
それをバカ息子、さらりと蹴り飛ばしてきてしまった。「教職だけはとるって言ったじゃない…」と、もはや呪文のように母は呟いた。もうこうなると理屈ではない。「ああ、また心配を押し付けてしまった。裏切ってしまったな」と思うだけですむ息子は、楽であり、ずるい。
 
気恥ずかしい話だが、母の涙は、それなりに、というか、かなりちゃんと息子には響いた。これはなにがなんでも食えるようにならなくてはならんと、現実を知らぬ青二才であったのにも関わらず、生意気にそう決意したものだ。勝手なものだと思う。

 
デビューしてから数年経った後。「YELL」や「じょいふる」なども出して、いくつかヒット曲と呼べるものなんとか出せた頃だ。突然、母から「話があるから実家に帰ってきなさい」と呼ばれた。
 
何の話かと思えば「自分たちも年をとって、いつ何があるかわからないから、ちゃんと前もって把握しておいてくれ」と、祖父が建てた墓の話や、保険やらなにやらの書類についての話、親戚とのあれこれなど、いわゆるどこにでもある家庭事情の引き継ぎだ。
 
知らぬ話もあったのでそれなりに驚いたりもしたが、結局はそれだけのことだ。「実はお前には生き別れたお兄さんがいて…」という話でもあるのかとドキドキしていたので、なかば安心していたら、母が突然、束になったチラシをドンと目の前に置いた。数年前の、就職案内のチラシの束だ。
 
今だにとっておいてあったのか!そのことに驚いた。もしやまだ息子の就職を諦めていなかったのかと戸惑う。すると静かに母が言った。「もうこれ、捨てるから。最後に一度、自分でちゃんと読みなさい」チラシを手にしたバカ息子に、母は言葉を続けた。「あなたにはもう、必要ないでしょう」
 
認めてもらった、と言ってしまったら、それはこちらの勝手な見方だろう。そんな風に思う気はさらさらない。だが、これから先はもう、自分の責任で、自分がやるべきと思ったその仕事をまっとうして、自分の人生を生きなさい。そう伝えられたんだなとは、思った。少し、嬉しかった。
 
時を戻す。デビューは3月15日で、大学の卒業式はたしか、その1週間後くらいだったろうか。ぎりぎりのところで「大学在学中にデビュー」というセリフを履歴書に書けることになった。卒業式。仲のいい友人が、自分の腕を引っ張り、見知らぬ同級生に言う。
 
「ねぇ、聞いてくれよ。こいつすげーんだよ。今度、メジャーデビューするんだって。」言われた同級生はキョトンとして、一言で返す。「え?メージャーリーグ?」大学のなかで僕がデビューすることを知っているひとなど、ほとんどいなかった。


 
受験の合格発表のとき、大学前の並木道には、まぶしく桜が咲き誇っていた。小田急線から見える桜とともに、仮面浪人までした末に見たその桜も、自分の心のなかでは大事なものだった。あのときから四年が経ち、また新しい春にたどり着いて、街では少しずつ、デビュー曲が流れ始めていた。
 
 
 
 
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第14回』




 image.jpeg


 
 image.jpeg
 
 
 
1月29日リーダーの呟きより~

超いきものばかりの制作も着々と進行しているようですね♬
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

まとめ② 超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」 13~24 [超セルフライナー]


2016年1月27日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

13.「月夜恋風」

image.jpeg


これも二十歳くらいに書きました。
秋の夜長、月を眺めながら夜風に撫でられたら。
そんな少しだけ贅沢な時間を…

(山下)

 

 

1月28日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

14.「おもいでのすきま」

image.jpeg

インデイーズの頃を思い出すんですよね。
当時20歳そこそこだった自分たちからすると、
すこし背伸びをした、おしゃれな曲だったように思います。

歌のなかの主人公の二人って、
どっちも容姿端麗だと思うんですよね笑。

なぜだろう、そんな気がして。

かっこいい曲を書くもんだな、山下くんは。

そうあの頃も思いました。

(水野)

 

 

 

1月29日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

15.「恋詩」

image.jpeg


この曲は、実はインディーズ時代に、
ライブハウスでワンマンライブを行っていた時から演奏していた曲です。

当時から、格好良くて激しい曲というイメージがありました。
ホーンセクションの演奏も際立っていて、
素敵な1曲になりました!

(吉岡)

 

 

 

1月30日

【超セルフライナーノーツ“~本日の一曲~”】

 

16.「夏空グラフィティ」

image.jpeg


PV撮影、まさかの海外でございました。
サイパン…

(山下)

 

1月31日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

17.「夢題〜遠くへ〜」

image.jpeg 

この曲に出会ったのは17歳の頃。
山下が文化祭のために、たった数日で仕上げてきた3曲のなかの1曲でした。
山下とはずっとライバルですからね。曲を作り出した、その頃から。
目の前にライバルがいながら互いに成長していくって、
それは幸せなことですよ。たぶん。

(水野)

 

2月1日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

18.「プラネタリウム」

image.jpeg 


この曲のイントロのストリングスを聴くだけで、
何故だかぐっときてしまいます。
サビに「悲しみの夜を越えて」という歌詞があるように
寂しさや切なさを感じる曲ではあると思いますが、
曲もアレンジも、優しい輝きを放っている1曲になったのではないかなと思っています。

ミュージックビデオでは、
いきものがかりメンバーと同じ衣装を着た3体の人形が出てきたりと、
ファンタジックな世界観になりました。

(吉岡)

 

2月2日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

19.「歩いていこう」

image.jpeg 


ジャケットがまさかの本物のウサギとカメ使用。
PVが「架空の映画の番宣」みたいになってるので見てみてー!

(山下)

 

2月3日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

20.「帰りたくなったよ」

image.jpeg 


いつかのライブツアーのとき、ラストにこの曲を歌ったんです。
そうしたら目の前の親子連れ、お母さんが、
小学生くらいですかね、娘さんの肩を抱いて泣きながら、でも笑顔で、
この歌を聴いてくれていました。
そういうときですよね。歌をつくってよかったなと思うときは。

「帰りたくなったよ」というタイトルではあるけれど、
帰る場所がもう無いひと、
帰りたくても帰れないひと、
手を振ってくれるひとがもう会えないところにいるひと、
にこそ聴いてほしい曲です。

(水野)

 

2月4日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

21.「なくもんか」

image.jpeg

映画「なくもんか」の主題歌としてつくらせて頂いたこの曲は、
曲のタイトルも「なくもんか」になりました。
いきものがかりのツアーでバンマスをやって頂いている
本間昭光さんに、初めてアレンジして頂いた、
いきものがかりの曲でもあります。

主人公の抱えているさまざまな葛藤や切なさが描かれている楽曲でもあり、
それでいて、暖かみのある1曲になったのではないかなと思っています。

この曲のシングルのCDジャケット撮影時には、
メンバー3人共が、着ぐるみを着て撮影をしました。
ジャケットに写っているピンク色のうさぎは、
まぎれもなく私、吉岡です。(笑)
そしてこの曲のMVでは、
メンバー3人が演技らしき事(?)に挑戦しています(笑)

こんな風に、沢山のエピソードが出てくる1曲でもあります。(笑)

(吉岡)

 

2月5日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


22.「ハジマリノウタ~遠い空澄んで~」

image.jpeg 


唯一のアルバムのタイトル曲ですね。

「僕が生きた「証」を残そう 
それをいつの日か「夢」と名付けよう」(だったかな??)
ってとこが個人的には気に入ってるフレーズでやんす。

(山下)

 

 

2月6日


【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】


23.「気まぐれロマンティック」

image.jpeg 

 

アレンジャーの江口さんがデモをつくってくれていて、
それがドラマのスタッフさんの耳にとまったんですよね。
だからこの曲を世に出せたのは江口さんのおかげだと思っています笑。

当時は「サンデーモーニング」という仮タイトルがつけられていたこの曲。
ミュージックビデオでは、メンバーのコスプレが印象的。
ディレクターの田口さんは「これがボクの渋谷系へのアンサーです」と言っていました。

当時の勢いがつまった、躍動感のある曲となりました。

(水野)

 

 

2月7日


【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

24.「うるわしきひと」

image.jpeg 


可愛らしくて、透明感がある曲だと思っています。
ちなみに、この曲のミュージックビデオの撮影の時に、
私はおたふく風邪になりかけていたらしく、
ミュージックビデオをよく見ると、

私の頬っぺたがいつもより少しだけ膨れています(笑)

(吉岡)

 

 

 

 

 

 

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

まとめ① 超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」 1~12 [超セルフライナー]


2016年1月15日

本日よりベストアルバム「超いきものばかり」収録全60曲のメンバーによるセルフライナーノーツ企画、「超セルフライナーノーツ『〜本日の一曲〜』」がスタート!メンバーがくじ引きで曲を選び、それぞれが自由に綴ったライナーノーツを、リリース日に向けて毎日ランダムに一曲ずつ公開していきます!

 



ということで、記念すべきスタートを飾る一曲目は…?そして語ってくれるのは…!!

 



【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

1.「花は桜 君は美し」

image.jpeg

 


インディーズ時代、初めてのワンマンライブの一曲目を飾った思い出の曲です。

路上ライブでもこの曲でよく人を集めてました。

(山下)

 

 

 

本日スタートの超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」。

初回は山下穂尊が綴る「花は桜 君は美し」、でした。
 この企画、毎日一曲ずつ特設サイトと両方で公開していきますが、
ツイッターでは当時のアーティスト写真と共に公開!
お楽しみに♪

 

 

 

 

1月16日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

2.「YELL」

 

image.jpeg

 

前年のアンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓 十五の君へ~」がとんでもない名曲で。
NHKの合唱課題曲、その後を受けた僕らにとっては大きなプレッシャーでした。

最初NHKから頂いた曲のオーダーは前年からイメージを変えて、
アップテンポの明るい曲を、というものでした。

 オーダー通り、アップテンポの曲も書いてはみたんですが、

どうしてもしっくりこなくて。

自分が中学生だった頃を思い出すと、
全然、この曲の世界観じゃないよなぁって思っちゃって。

僕はひねくれた、

暗い生徒だったんでね笑。

それでバラードも書いたんです。

勝手に。

笑。



初めて放送でこの曲が流れたとき、
ずっとお世話になっているピアノの先生からメールが来て。

「あのときの、思い悩んでいたときの、
中学生のあなたを見ているようで涙がこぼれてしょうがなかった」

と。

そのメールを見て「書けたんだなぁ」とやっと思えました。

(水野)

 

 

 

1月17日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 


3.「キミがいる」

 

image.jpeg

ドラマ「ホタルノヒカリ2」の主題歌として制作していった曲です。
私が初めてシングル曲を書かせて頂いた1曲でもあります。

ドラマ「ホタルノヒカリ」を観たり、
「ホタルノヒカリ2」の台本を読ませて頂きながら曲をつくっていったのですが、
ドラマの主人公が同世代ということもあり、
感情移入しながら曲をつくっていった思い出があります。

島田さんのアレンジで、曲がキラキラしていって、
爽やかさのある曲になったのではないかなと思っています。

ライブでは、タンバリンを持って歌うのが定番になっています!!!

(吉岡)

 

 


1月18日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

4.「あなた」

 

image.jpeg

 

「貴様」だと意味合い変わりますね。
 しかし、昔は相手を敬う言葉だったのですよ。
 なんせ「貴い」「様」ですから。

(山下)

 

 

 

1月19日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】 

 

5.「ホットミルク」 

 image.jpeg

 

実は少しだけ、僕が歌詞を書いている部分があるんですよ。

もう、どこを書いたかも忘れてしまったけれど笑。

ディレクターの発案で「水野、歌詞書け」ってなって。

もう、どこを書いたかも忘れてしまったけれど笑。

ディレクターの発案で「水野、歌詞書け」ってなって。

山下が書いたメロディに歌詞を書こうとするんですが、

発音のハマりに関して、お互いに納得できる感じに、

どうしてもならない。 

山下がもっているメロディのイントネーションと、

僕がもっているメロディのイントネーションとが、

全くの別モノなんだなと、深く認識した経験でした。

だからそれ以来、お互いの作品に関わることはやめよう、

お互い独立して書こう。そうなりました。

それでよかったと思います。

(水野)

 

 

 

1月20日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 


6.「KISS KISS BANG BANG」

 image.jpeg

この曲は、「十六茶」のCMソングとして作っていった曲です。

 「女神(Venus)だって Chu Chu Chu Chu」

という歌詞だったり、
アレンジも元気で華やかで、
“キュート”な雰囲気の曲になりましたね。

この曲の歌入れの日は、私はちょっと鼻声だったんですが、
歌入れが終わってからディレクターさんに、

「それはそれで曲に合っているよね(笑)」

と言われたのを覚えています。(笑)

パワフルな曲でもあるので、
そこも楽しんで頂けたら嬉しいです!!!

(吉岡)

 

 

 

 

1月21日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

7.「LIFE」

 image.jpeg

去年のツアーのアンコール一曲目。

演出のドットイメージが綺麗でしたね。

さぁ気になったそこのあなた。

DVDをチェックしよう!

(山下)

 

 

 

1月22日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 


8.「笑ってたいんだ」

 image.jpeg

震災が起きた頃、書いていた曲でした。

それまで、なかば使い古していたはずの言葉たちが、
急に新たな濃い色を放つようになって、戸惑いました。

「ヒーローなんていらないよ ぼくはきみの言葉が欲しい」

あふれだした正義や美談がどこか怖くて、嫌で、
そんな歌詞を書いたんだと思います。

(水野)

 

 

1月23日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

 

9.「赤いかさ」

 

image.jpeg


この曲は、いきものがかりメンバー3人が高校時代からあった曲です。
確か、リーダーがいきものがかりの楽曲としてつくっていった、
1曲目か2曲目だったと思います。

男子2人のいきものがかりに私が加入してから、
地元の神奈川・本厚木駅の前で、よく歌っていました。

当時はまだ、
いきものがかりのオリジナル曲も少なかったですし、
よく歌っていましたね。…

切ない恋の物語ではあるんですが、
メロディーに温かみがあって、
曲の主人公は、最後には前向きになっていきます。
アレンジして下さった西川進さんのギターサウンドも、とっても素敵です!

(吉岡)

 

 

 

1月24日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】



10.「真夏のエレジー」

image.jpeg


初っぱな、「♩恋は終わった~…」。
ネガティブを極めております。
2003年の夏を思い出す一曲です。

(山下)

 

 

 

1月25日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 


11.「ブルーバード」

image.jpeg


すごい短時間で書けた記憶があります。
一筆書きみたいな。
僕らの曲のなかで、最も海外で聴かれた曲かもしれません。…

「NARUTO」の主題歌としてアニメを通して、広く知られました。
英語圏のひとたちが、このメロディを気に入ってくれたことは、
僕にとって希望です。

(水野)

 

 

 

1月26日

【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】

 

12.「ラブソングはとまらないよ」

image.jpeg


この曲の主人公は、ただ無邪気に恋をしているだけじゃなく、
自分の中にちゃんと1つ芯を持った女性なんだなぁと感じながら、歌っていました。

この曲のミュージックビデオには、
恋をしている女の子のいろいろな表情が詰まっていて、
透明感のある素敵な作品になりました。

(吉岡)

 

 

 

 

まとめ②へ つづく 

 

 

 

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

いきものがたり まとめ 8 (第12回中編~12回後編) [いきものがたり]

 
2016年1月17日
 
第12回 中編
 
 
 

『第12回 〜中編〜』


ここらへんの話は、一気にいきます…。

ディレクターに鍛えあげられているまさにその最中だったと思う。2005年の初夏だったろうか。レコード会社主催のショーケースライブを、渋谷のDuoという少し大きめのライブハウスで行うという。ショーケースライブ。「ぎょーかいじん」が来る、あれだ。

これからデビューを控えるエピックレコードの新人を、各メディアやイベンターのひとたちにお披露目するライブだ。たしか、全部で7組ほどだったろうか。いきものがかりも、そこに出るということになった。

出演者は全員デビュー前。アンジェラ・アキさんや中孝介さんもそこにいた。お二人とも当時から素晴らしかった。異色なところではAkeboshiさんもいた。リハーサルで初めてAkeboshiさんのライブを観て山下と「いやぁ…天才っているんだなぁ」と二人で話したのを覚えている。

ライブのパフォーマンスについても当時僕らは多くの指導を受けていた。MCがダメだということらしく、ちゃんと準備しろときつくいわれ、今では考えられないがMCの台本を、こと細かく水野が書いた。「うん」という相づちまで一文字残さず書いた。今なんて、何も考えず舞台に上がるのに。

衣装の方向性も決まっていなくて、なぜか吉岡はタイトなスカートに、ブーツのようなものをはかされて、彼女本来の性格とはずいぶんちがう格好をさせられていたと思う。もうほんとあの頃は、なにからなにまで、めちゃくちゃだったなぁと笑ってしまう。

そのライブ用に宣材写真を撮らなきゃいけないとなって、初めてスタイリストさんやメイクさんが入って、ロケをして撮影した。水野は、なぜか髪を立ち上げて、オールバックのような髪型にされた。ピッチピチの赤いTシャツを着させられて。ほんと、あれ、なんだったんだ。笑。

会場にはテーブルが用意されていて、さまざまな業界の関係者たちが、席についていた。ひとつひとつ、出演者の紹介と、パフォーマンスが行われていく。いきものがかりは「コイスルオトメ」と「ホットミルク」を演奏した記憶がある。あれ、違ったかな。緊張もして、あまり覚えていない。

パフォーマンスのときの記憶よりも、そのあとのことのほうが、強く印象に残っているからだ。今からすれば、笑い話だけれど、ちょっと悔しかった、記憶。

すべての新人のパフォーマンスが終わると、ライブに来てくださった各関係者の皆さんとの「ご挨拶タイム」みたいなものがセッティングされていた。これからデビューする新人を、いろんなメディアのひとにちょっとでも覚えてもらおう。レコード会社としては、当然の売り込みだ。

だが、その”ご挨拶”がなかなかにすごいスタイルで行われる。みんなアーティスト名が書かれたプラカードを持たされるのだ。各テーブルにはメディアの人達やCDショップのバイヤーさんなど関係者が座っていて、その間をプラカードを持ってラウンドガールのように練り歩く。本当の話だ。

ま、そういうことは、僕らはわりとおもしろがってやってしまうほうなので、「ひでぇな」って思いながらもキャッキャとふざけて、はしゃぎながらプラカードを高く掲げて、各テーブルをまわりはじめた。でも、そこからだった、つらかったのは。

7組すべてのアーティストが会場をまわるのだけれど、それぞれで「まわる時間の差」が生まれてくるのだ。

どういうことかというと、パフォーマンスが評価されたアーティストは各関係者の皆さんも社交儀礼の挨拶だけじゃなく、熱いコメントをしてくれて、自然と会話が長くなる。評価されないアーティストは会話も弾まず、しまいには流れ作業のようになって、あっという間に挨拶が終わってしまう。

関係者の方々の目というのはプロである以上、シビアだ。自分が「このアーティストは伸びる!」と思ったら、そこに情熱をかたむけてくれるが、「これはダメだな」と思ったら、どうしてもドライな態度になる。責めているわけじゃない、それぞれの世界のプロとして、当たり前のことだと思う。

僕らは、7組中、もっとも早く、挨拶が終わってしまった。20分くらいで終わってしまって、あとはずっと会場のいちばん後ろで、プラカードを持って、ぽつんと3人で立っていた。

さっき「よろしくお願いしますっ!」と元気いっぱいで挨拶した吉岡に、苦笑いで「まぁ、がんばってね」と言った男性が、目の前でアンジェラアキさんに「いやぁ!素晴らしかった!」と飛びつかんばかりに話しかけている。当然だ、アンジェラさんのパフォーマンスは、本当に素晴らしかった。

ああ、オレら、ダメだったんだなぁ。話は簡単だ。良いパフォーマンスが出来なかった自分たちが悪い。会話が盛り上がり、いつまでも挨拶回りが終わらない、他のアーティストさんたちの背中を、いちばん後ろでながめながら、自分たちは本当にデビューできるのかなぁとぼんやり考えていた。

でも、誰もが見向きしてくれなかったわけでもなかった。ほんの数人だったかもしれないけれど、ちゃんと情熱を持ってコメントしてくれるひともいた。そのひとたちは、その後、自分たちの活動を、本当にいろんなかたちで助けてくれた。

広島のイベンターにTさんというひとがいる。たしか、そのショーケースライブの打ち上げの時だったと思う。ライブをほめてくれて、スタッフさんのいないところで一言、ぽつりと僕に言ってくれた。「オレね。いきものはね、金の匂いがするんだ。」今から振り返っても、すごい台詞だ。

皆さんはこの言葉、どう受け取るだろうか。業界の人のひどい言葉と思うだろうか。でもそのとき僕は、心から嬉しかった。このひとはいくつものライブ現場を見てきたプロとして僕らに「可能性がある」と思ってくれた。そして言わなくていい、剥き出しの本音の表現で、それを伝えてくれた。

もっとキレイに言うことだって出来るのだ。でも、そんなきれいごとの嘘を言うのではなく、プロとして「お前らは成功すると思う!だからお前らとの仕事はいつかでかい仕事になる!俺はお前らと組みたい!」と本音で、まだ世の中のことをほとんど知らぬ、若造の僕に、伝えてくれたのだ。

実際、Tさんはデビュー当時から中国地方のライブイベントを何度も組み立ててくれて、誰よりも熱い情熱で僕らのライブを助けてくれた。客が入らなくても続けてくれた。「いつかアリーナでやるようになってくれねぇと、うち儲からないぞ!」と冗談で笑いながら、でもずっと応援してくれた。

今でこそ、アリーナツアーなんてことができるようになったが、本当にデビュー当時は、なかなかライブにお客さんを集めることができなかった。Tさんだけじゃなく、全国各地で、いきもののライブを、ライブハウスのツアーから、ともにつくってくれたイベンターさんたちがたくさんいる。

みんな熱い情熱を持って、僕らに可能性を見出してくれた。その出会いに恵まれていった僕らは、端的に、幸せだったと思う。




ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。



『第12回 〜後編〜』はのちほど。

 

 

『第12回 〜後編〜』
まだ、まだ、まだ…デビューしていないっていう…笑。

 

相変わらず、アニメの主題歌の座は獲得することができなかった。オトナたちは焦っていたし、僕らも自分たちを見失っていたけれど、しかしその裏で、自分たちの自我というか、軸のようなものが、むくむくと、育っていたのだと思う。

「一度、好きにつくってみれば」と、いろんなことがうまくいかないので、もはや、なかばサジを投げるような感じで、スタッフから提案された。思ったように、やってみろよ。と。内心は、かきまわせるだけかきまわしておいて、今さら…なにくそ。と思っていた。まだ、子供だった。

自分たちの感覚に従って、自分たちにとって正しい曲をつくるほうが、必ずうまくいく。必ず、世に出れる。ということを、言葉だけではなく、かたちとして提示しなければいけなかった。「思ったようにやれ」と言われたほうが、責任は重い。でも結果を出すしかない。自信はあった。

わけのわからない嵐に飲み込まれて、ほとんどすべてを見失えるだけ見失っていたけれど、1週間ほど時間を与えられて、「ほんとはこんな曲、やりたかったよな」と、自分のなかに最後に残ったかけらのようなものを、ぼんやり思いながら、メロディを書いた。

それが「SAKURA」だった。

当時は、森山直太朗さんの「さくら」があったり、ケツメイシさんの「さくら」があったり、コブクロさんの「桜」が流れ始めていたり。とにかくいわゆる「桜ソングブーム」が、もう起きていた頃だった。でも、そんなことを気にする余裕が、そもそもなかった。

歌ってメロディをつくりながら「さぁくら〜♪」と出てきてしまったときは「ああ、桜ソングか。二番煎じと言われるかな。」と一瞬思ったが、でも今自分が書きたいものは、これなのだから、書けばいいか。世の中の動きなんてどうでもいい。と、思い切った。逃げるほうが、かっこわるいと。

あのとき、J−POPという言葉をつかって、自分たちを肯定的に語るグループはあまりいなかったと思う。そんなグループが「桜」という使い古された、でも、J-POPにとって最大のモチーフから、デビュー曲で逃げずに戦ったことは、今から振り返れば、正しかったな、とは思う。

ただ、身の程知らずだったとは、思う。

しばらくして、本当にデビュー曲が決まらない。タイアップもうまく決まらない。チーム内では様々な意見があったのだろうけれど、メロディが強いあの桜の曲を、タイアップがつかなくてもいいから、曲を信じて、デビュー曲として出してしまおう、となった。たしか、そんな流れだったと思う。

最初、のちに「SAKURA」となる曲には、ある程度の仮歌詞があった。デビュー曲にするのならば、その歌詞を、もっと洗練させたい。吉岡の歌を鍛え上げたディレクターと、今度は僕が1対1で向き合うことになった。 

簡単に言うと、40回ほど、歌詞を書き直した。つらかった。

40回の歌詞の書き直しに、付き合うディレクターも凄い。たった数文字の表現について、2、3時間電話で話すことも何度もあった。お互い、熱がこもって、ほぼ喧嘩のように語気が強くなることもあった。

ある部分の修正をメールで送ったあと、留守電にディレクターからメッセージが入った。どうやらうまく書けたようで、ほめようと思ってくれたらしい。「いや、あの部分、感動したよ」と簡単なメッセージだったのだけど、その声がふるえている。

のちに「SAKURA」がリリースされたあと、ある作詞家の方がディレクターに「君の担当している彼らのあの歌詞。よかったよ」と褒めてくれたという。それを知らせようと電話してきてくれた時も、電話先で彼は泣いていた。もう自分だけの曲じゃない。一緒に戦っているような感じだった。

歌入れが迫る。何十回も書き直しているけれど、ゴールまで辿り着かない。このままでは歌入れに間に合わない。大阪でのイベントライブがあって現地に入ると、ディレクターがいた。大阪まで来てくれた。その日が初めての大阪ライブだったが、そのまま喫茶店に入り、本番まで歌詞の話し合い。

梅田の喫茶店だったと思う。少しおしゃれな。そのおしゃれな店の雰囲気にまったくそぐわない二人だった。一方は、書き直しの作業でげっそりした、顔色の悪いソングライター。もう一方は、鬼気迫る表情で歌詞を読み、なんとかいいものにしたいと充血した目を見開いているディレクター。

「うん。これでいいんじゃないかな。やっと書けたね…」ディレクターがぽつりと言った。「いやぁ…よくやったね…」そう言ってくれたけれど、なんだか意識がはっきりしていなくて、ああ、これで終わったのか…と。不思議な気持ちだったことを、覚えている。

メジャーデビュー。というやつが、迫っていた。季節は、もう少しで、春になる。

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。

そして今日は長文でした、お付き合いありがとうございました。

 

次回は『第13回』。

 

 





 

 

 

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

いきものがたり まとめ 7 (第11回~12回前編) [いきものがたり]


2016年1月8日  第11回 
 
 
 
 

 『第11回』

image.jpeg

 

新年初の更新。今年もよろしくお願いします。若き山下くん。今年は、山下くん推し。

 

僕らがデビューする頃は「メジャーデビュー」という言葉が、今よりもまだ、もう少し輝きをもっている時代だったと思う。僕らはメジャーレーベルから作品をリリースする、つまりはメジャーデビューを目指していた。

仕組みがややこしくて理解されにくいかもしれないけれど、事務所に入るだけではデビューとはならなくて、自分たちの作品をリリースするレーベルをみつけないといけない。わかりやすい表現でいうと「手をあげてくれるレコード会社」をみつけなけらばいけない。

キューブに入ってすぐの頃、事務所主催のショーケースライブに出ることになった。ショーケースライブというのは、ようは業界人向けのお披露目会のようなもの。スーツ姿の業界人が腕組みをして見ているところで、ライブをしなきゃいけない、なかなかにきつい環境でのライブだ。

渋谷O-EASTでそれは開かれた。ずっと神奈川でライブをしていたので、東京の、しかも800人規模という当時の自分たちからしたら大きすぎるO-EASTの舞台に立つことにはかなりの緊張があった。

大学生だった僕らから見ると、「ぎょーかいじん」は怖かった。今から考えると、各地のイベンターさんや、メディアのひとたちなど、デビュー後にお世話になるひとの多くに、ここで出会っていたのだと思う。そしてそこに、僕らに”手をあげる”レコード会社のスタッフも来ていた。

エピックレコードは、当時、新人をみつけて若い世代でのヒットを目指そうと模索していた頃だったそうだ。キューブとすれば、なんとかいきものがかりにも興味を持ってもらいたくて、当時の社長だったカズさんこと、小林和之社長にもこのライブの招待状を送っていた。

小林社長。カズさん。は豪快なひとだ。エピックの社長として僕らは本当に可愛がってもらった。僕らもカズさんが大好きで、吉岡は関西弁のカズさんの口ぶりをモノマネして、ラジオでよく披露していた。他社に移られた今でさえ現場で会うと「元気か!」と声をかけてくれる。素敵なひとだ。

しかし当日、そんな素敵なカズさんの姿は会場にはなかった。カズさん、すっかりライブを忘れていて、なんと合コ…いや、女性との有意義な会食に出かけていたのだ。直前に気付いたカズさんは「やばい!」と焦り、社内のナンバー2に、代わりにライブに行くよう頼んだ。(すべて本人談)

頼まれたナンバー2のこのひとが、僕らの人生を変えることになる。「しょうがねぇなぁ…」と代わりに会場を訪れると、他のレコード会社の人間を何人も会場のなかにみつけた。「ああ、あそこも…。あのレーベルも…。みんな付き合いで一応、顔は出しているんだな…」かすかに身構えた。

何組か登場した新人バンドのなかで、ひとつ心にひっかかったバンドがあった。いきものがかりという、変な名前のグループだ。披露された「ノスタルジア」という曲が気に入った。あたりを見回すと他社のスタッフの姿。「あ、他にもってかれるかな」そのひとは直感で思った。

すぐにキューブに連絡をとり、興味があることを伝えた。他社の人間がたくさんきていた。もしかしたら他のレーベルと取り合うことになるかもしれない。いや、でもうちは今、会社の新しい顔となる新人のヒットを狙いたい。とれる新人は、とっておきたい。ここは一応、手をあげておかねば…。

しかし、実のところ、手をあげたのは、そのひとだけだった。「え??うちだけ??」

かくして、そのままスムーズに話は進み(だって競合する他社がいなかったから)いきものがかりはエピックレコードジャパンと契約をすることになった。事務所の部屋に呼ばれ、北牧社長から「いいニュースがある。お前らがメジャーデビューを果たすレコード会社が決まった」そう告げられた。

その日のことは覚えている。社長から怒られたからだ。デビュー決定を告げられても、僕ら3人は、なぜか全く喜ばず、神妙な顔をして「はい」と言っただけだった。「お前ら、もっと喜べよ!」と、笑われた。

「ここからが本当のスタートだ、もう引き返せない」と思うことしかできなかったのが、本音だ。もちろん物事が前に進むことは嬉しかったけれど、まだなにも成功していないのに無邪気に喜べる要素がなかった。むしろ、3人とも、これからが怖かった。

少し日をおいて、エピックのスタッフとの面談も行われた。社長の代わりに行ったライブで、うっかり僕らに手をあげてしまったひと、一志さんとも、そのとき初めて会った。”いっし”さんと読む変わった苗字なのだけど、会うなり「どうも、初めましてイッシーです!」と握手を求めてきた。

「うわぁ、いきなりあだ名で自己紹介?!めっちゃ、ぎょーかいじんだ!!」と戸惑った。今から考えれば、「イッシー」とふざけて言ったわけではなく、普通に「一志です」と自己紹介しているだけだったのだけれど、こちらは全てが初めての経験で、警戒しまくっていた。

激励する気持ちがあったのだろう。「うちのレーベルには、かつてドリカムが育った時代があり、ジュディマリが育った時代があった。君たちには、その次を狙う存在となってほしい。」普通なら、感激と恐縮の極みの言葉だ。まだ世にも出ていない3人にこれ以上ない、励ましの言葉だろう。

だが、悲しいかな、その前の挨拶で一志さんを「ぎょーかいじん」だと決めつけている僕らは「なに調子のいいこと言ってんだ。ダメになったらクビにさせるくせにっ!!やいやいっ!だまされてたまるか!!」と思っていた。そのあと後ろ盾として、めちゃくちゃ一志さんにお世話になったのに。

そしてその面談には、現場で僕らと向き合うことになる初代ディレクターも来ていた。その日からだ。僕らにとって、本当に長く、厳しく、つらい、デビューまでの育成期間が始まったのは。もう2度と過ごしたくないが、あの時間がなければ今の自分たちはないと言える、特別な日々が始まった。

 

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第12回』。

 

 

2016年1月17日

 

第12回 (前編)

 

『第12回 〜前編〜』


写真が、ない代わりに、デビュー前のあれこれについて、前編、中編、後編の3部に分けて、書きます。長くて、ごめんなさい。

 

2005年の春頃に「人生すごろくだべ。」という3枚目のインディーズアルバムの制作に入った。一応、インディーズとは銘打たれていたけれども、エピックレコードのスタッフも現場に入り、いつか訪れるメジャーデビューに向けて、前哨戦となるような作品だった。

初代ディレクターは僕らより10歳ほど年長で、当時は30代前半だったと思う。端的に、厳しいひとだった。そこらへんのアーティストより、アーティスト。という言い方でどこまで伝わるのかわからないけれど、なかば狂気じみた情熱を、音楽制作に対して持つひとだった。

まず、最初に彼と向き合ったのは、吉岡だ。文字通り、叩きのめされた。完膚なきまでに。

過酷なものだなと思う。「歌いたくない」という言葉を吐いてしまうほど厳しかった音大での日々。そこでやっと積み上げた歌のかたちを、吉岡はまた再び、初代ディレクターにぶっ壊された。そして、その「壊す」というディレクターのその時の判断は、圧倒的に正しかったと僕は思う。

音大のミュージカル科で学んだ、あくまで舞台上でのパフォーマンスを念頭においた歌唱が、必ずしもすべて、そのままポップスに適用できるわけではなかった。「ポップスにおけるリズム、発声、ピッチ、パフォーマンス、歌い姿…どれひとつ出来ていない。なにひとつだ!」吉岡は叱責された。

渋谷にレコード会社が持つ、小さなプリプロスタジオがある。社長の気まぐれで「カジノスタジオ」という名前をつけられたそのスタジオは、新人がカンヅメにされて、育成される場所でもあった。雑居ビルの地下で、なぜかとってもカビ臭い。そこに、よく朝までいた。

とにかく吉岡は、歌って、歌って、歌って…歌い倒した。ファルセットを多用する歌唱法を、徹底的に直された。歌声の低域をふくよかにするために、中低域を魅力とするシンガーのCDを聴いて、その歌唱を完全コピーして歌って、さらに自分の歌い方に戻していくということもやった。

ポップスのリズムやグルーブの感覚を体で覚えるためにも、とにかく歌った…。ときに罵声に近い厳しい言葉を浴びながら、嫌というほど歌いまくった。作業が長引いて朝4時、5時まで歌うことも、ザラだった。そのなかで自分のスタイルを少しずつ、本当に少しずつ、つかんでいった。

このディレクターとの過酷な対峙は、デビュー1年後あたりまで続く。のちに男子二人も、曲作りにおいて同様に鍛えられるのだけれど、精神的にも、体力的にもタフな時代だったと思う。

昼にスタジオに入って、翌朝までスタジオで過ごす。あのどうしようもない気持ちで迎える夜明けを、今でも忘れられない。男子二人はスタジオから大学に行くことも多かった。あまりにつらくて、吉岡が叫びながら、スタジオの待合室の床を、比喩ではなく本当にのたうちまわったこともあった。

恵比寿の某スタジオにはディレクターの言葉に納得できなくて、なかば半狂乱になって水野が壁を蹴り上げたあとが、おそらくまだそのまま残っている。スタジオのひとには申し訳ない。スタジオに何の罪もないが、あの頃を思い出してしまうので、それ以来、僕らはそのスタジオを使っていない。

そこまで向き合ってくれたディレクターも凄まじい人だったと、改めて思う。いきものがかりを世に出そうとするために、本当に全身全霊でことにあたってくれていた。しかし、その情熱は嵐のようなもので気を抜くと吹き飛ばされて自分たちを思ってもいない方向に向かわせるようなものだった。

10年前の話だけれど、当時、ソニーミュージック系列の新人は、アニメの主題歌に選ばれることで、世に出るかたちをつくることが多かった。デビューする前の僕らも、とにかくオトナたちからは「なんとか、アニメの主題歌の座を獲得するんだ!」と、もう嫌というほど言われた。

2005年は、まさにそのための曲作りをしていたようなものだったかもしれない。当時のスタッフの要求はとってもストレートで、主題歌を狙うアニメのカラーに合わせて、ばんばん曲に修正を求められた。

バラードでつくったはずの曲が、いつの間にかアレンジャーに発注され、ディストーションギターの轟音が響くハードロックのデモで返ってきたりする。歌詞はアニメの方向性に合わせ、一字一句、気持ちの悪いほど前向きなものを求められた。戸惑う余裕さえなかった。

神奈川の片田舎から出てきた、いくらのんびり屋の大学生たちでも、その嵐に飲み込まれたら「自分たちの音楽ってなんですか?」という青臭いことを考えないわけがなかった。遅かったのかもしれないけれど「自分たちのスタイル」に対する自我が、その頃、初めて生まれてきたのかもしれない。

オトナたちの思惑が、暴風となって吹き付けられる嵐のなかに立たされてはじめて、「いきものがかり」ってどんなグループですか?ということを、本当の意味で考えだしたのだと思う。あの頃、恐ろしい速度で僕らは自分たちを見失っていったが、その反面、恐ろしい速度で、強くなっていった。

結局、そんな表面的にサウンドや言葉を合わせていくことが、いい結果につながるわけもなく、当時の僕らはアニメの主題歌を決めることがなかなかできなかった。それは先方の作品と”むすびつく”ことではなく、”こびる”ことでしかなかったのだと思う。それがうまくいくわけがない。

のちに「ブルーバード」や「青春ライン」、最近では「熱情のスペクトラム」など。先方の作品の世界観と、表面的ではなくちゃんと結びつくことで、自分たちにとって大切な作品になったアニメの主題歌がいくつもある。この頃の自問自答を越えて、生まれていったつながりだ。

「タイアップが決まらないとデビューできない」と偉いひとにはハッキリ言われた。そんなクソみたいなこと!…と格好よくグレることも、もしかしたらできたのかもしれないけれど、それがそのとき自分たちが直面していた、冷たく、温度のない、純然たる現実以外の何ものでもない、壁だった。

 

ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。

『第12回 〜中編〜』はのちほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

いきものがたり まとめ 6 (第9回〜10回) [いきものがたり]


2015年12月18日

第9回

image.jpeg



『第9回』

今日の1枚。
町田駅での路上ライブ。当時、一番頻繁にライブをしていた場所かもしれない。

サンダースネークで初ワンマンを行った頃には、もう3人のなかでは、音楽の道に進むことに迷いがなくなっていた。このいきものがかりというグループで、なにかを成そうという決意のようなものが、少しずつ3人のなかで固まっていった時期だった 

目標として「10年」という言葉が出ていた。ちょうどそのとき、水野と山下は20歳。出ては消えてが繰り返される音楽の世界で、30歳になるまでの10年間、音楽活動を続けられたら、それはひとつの成功と言えるんじゃないだろうか。まずは10年を目標にしよう。そう3人で話していた。 

そんななかで、キューブという事務所が自分たちに興味を持っているという。先輩バンドのマネージャーだった女性が、その事務所のスタッフだと聞く。音楽業界について無知に等しかった僕らに、ライブハウスの店長は、盛んにこれはチャンスだ!と伝えてくる。 

何もわからない僕らにはそれくらいしかできなかったのだが、キューブがどんな事務所なのか、ネットで検索して調べた。テレビで見たことのある役者さんが多くいる。「騙されているわけじゃなさそう…」笑ってしまうが、高校時代に受けた怪しいオーディションのことがまだ頭をよぎっていた。

聞けば音源も気に入ってくれ、ライブも見に来てくれているという。ライブハウスですれちがう程度に顔を会わせることはあっても、ゆっくり話すことはなかったその女性マネージャーと、初めて面と向かって話をすることになった。 

あれはたしか都内のファミレスだったと思う。甲州街道沿い…いや明治通り沿いだったろうか。話した内容はほとんど覚えていない。ほめてくれていたような気がする。こう言うとまた怒られるが、優しいお母さんみたいなひとだった。もし入ることになったらこの人がマネージャーになるらしい。

初代マネージャーには「よっちゃん、ちゃんとご飯食べた?」と、いつも親のような心配をしてもらった記憶しかない。デビュー前で学生だった僕らに音楽のことも、音楽以外のことも、全てを優しく教えてくれたひとだった。というか、とにかく、よくファミレスでご飯を食べさせてもらった笑。 

そんなキャラクターだったけれども、仕事人として、すごいひとだった。ライブスタッフにしても、地方のイベンターにしても、初期のいきものがかりがお世話になったひとの多くは、その初代マネージャーの言葉で集まってきてくれたひとたちだった。 

実はそのひとは80年代後半から90年代前半にかけて一時代を築いたビックバンドを育てたひとでもあった。「イチヤン(そのひとのあだ名)が面白いっていう子たちなら、喜んで仕事するよ」と、いろんなひとが彼女のつくった信頼のもとで集まってくれ、力を貸してくれたのだ。

今でも会うと、ズバッと核心をついた助言をくれたりする。初めて日本武道館でライブをしたときも、まわりのひとみんなが賛辞をくれるなか、そのひとは「うーん、なんか物足りなかった」と決して褒めてくれなかった。それは、誰にもらう言葉より、励みになる叱咤だった。優しいひとだ。 

04年の初冬。ワンマンライブを、そのキューブという事務所の社長が見に来てくれるという。ライブハウスの店長はまるで自分のことのように息巻いていた。「人生かかってるぞ!がんばれ!!」と。僕ら自身は、ちょっと戸惑っているような感じだった。 

いよいよ、キューブに入るということになる。都内にある事務所に呼ばれ、そこで初めて社長と会うことになった。ライブに来てくれた社長とは、ライブ会場では挨拶ができなかったので、その面談が、初対面となった。

ちょっと話は飛んで。この頃、路上ライブを、不思議な男性客がひとり、頻繁に訪れていた。毎週、姿をあらわす。しかし話しかけてはこない。というか、いつも30mくらい距離を置いて、駅前の柱のあたりで、ずっとこっちを見ていないフリをしながら、聴いている。

スーツ姿ではなく私服だ。平日の夜、毎週さまざまな駅に来れる?普通の会社員で、それが可能だろうか。ただ、仕事をしていない自由人のようには思えない。比較的、身綺麗な紳士だ。音楽業界のひと?いや、でも一向に話しかけてこない。なんだ、このひと。3人のなかで、疑問になっていた。

いたずら好きの吉岡が、あるときチラシを持って、猛然とダッシュした。数十m先にいたその人にチラシを渡しにいったのだ。おそらく彼は気づかれていないと思ったのだろう。借金取りに見つかったような顔でいきなり向かってくる吉岡に本当にびっくりしていた。やっぱり聴いてたんじゃん。

話は戻って、初めての社長面談。会議室に通されて待っていると、少し恰幅のいい、大柄な男性がスタッフ何人かを連れて入ってきた。自分が感じた第一印象は「うわ。絵に描いたような社長顔だ。すっげぇ社長っぽい顔してるな、このひと。」だ。(ごめんなさい、北牧社長。)

しかし、3人が驚いたのは、社長のとなりにいた男性だった。それは毎週、柱のかげから僕らをあやしく見つめていた、あの男性だった。なんだ、そういうことか。そのひとの正体は、社長に言われて路上ライブを偵察にきていたスタッフだった。

自分たちが気付いていなかっただけで、キューブは1年間のあいだ、僕らの活動をいろいろなかたちで見ていてくれていた。そのうえで、拾ってくれたようだった。社長は、初めて僕らと面談したときのことをよく覚えているそうだ。

「なんで僕らをとってくれるんですか?僕らのどこが良くて契約してくれるんですか?」まったく本人は覚えていないのだが、そんな言葉を僕らは開口一番、社長に投げたらしい。ただ生意気なだけだったのだと思う。「そんなことをいきなり聞いてくる奴が初めてで、面白かった」と社長は笑う。

その日からいままで、まさにキューブに育てられていった。事務所愛をここで披露してもしょうがないが、よくもただの素人学生だった僕らを、なにもないところから拾ってくれたものだと、今も感謝している




 今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第10回』。
 
 
 
 
 
 
2015年12月25日 

第10回


『第10回』


今日の1枚。写真は山下さんからの提供です。左奥に若きダッチーの姿も。

image.jpeg

 

 

事務所に入ってからまず行ったのはインディーズアルバム「七色こんにゃく」の制作だった。当時、ともに制作してくれたアレンジャーさんの自宅が横浜にあり、そこに通ってデモをつくっていった。

レコーディングスタジオというものに生まれて初めて足を踏み入れたのも、このときだ。池尻にマルニスタジオというスタジオがある。そこが「七色こんにゃく」の制作場所だ。雑誌とかで見た大きなスピーカーと、卓と、なんだかわからない機材いっぱいと…。素直に目を丸くして驚いてた。

レコーディングには、デビュー初期のツアーをともにまわってもらったドラマーの原治武さんにも参加してもらった。ジブさんは、サンダースネークに出入りしていた先輩バンドのメンバーでもあって、自分たちからすれば兄貴のような存在だった。

事務所に入ったことで、ジブさんのようなプロミュージシャンと出会うことも多くなった。とくに当時、事務所の先輩だった音楽プロデューサーの鎌田雅人さんには、ライブでのサポートにはじまり、相談相手にもなってもらって、とてもお世話になった。

また、ベースの安達貴史くんと出会ったのもこの頃だ。専門学校を出たばかりで、先輩バンドのサポートをしていた彼を初めて見たのは、サンダースネークのステージだった。当時、彼は丸々太っていて、山下は「じゃがいもがベース弾いてるみたいだった」と冗談を言って笑う。

事務所のスタジオで初めて紹介された彼は、自分と同じ人見知りで、最初の頃はあまり話もしなかったように思う。ただ腕はピカイチで、同い年でも、やっぱりプロのプレーヤーになるひとはとんでもなく演奏が上手いんだなと、驚いたものだ。

やがて打ち解けて、天性のお調子者だと気づくのに時間はかからなかったが、とにかく音楽に対しては真面目で努力家だった。当時から山下と「俺らは売れるかわかんないけど、でもダッチーみたいなやつにだけは、いつか成功してほしいよな」とよく話していた。

10年経っても、安達くんと同じステージに立てていることは、いきものがかりの3人にとっては光栄なことだ。すっかり売れっ子になって、スケジュールをとるのが大変なのが、嬉しいやら腹立たしいやらだが笑。もっともっとすごいベーシストになってほしい。

FMヨコハマのコンテスト番組に音源を送ってみてはどうか。毎月、リスナーの投票でグランプリを決める番組があって、そこからデビューするきっかけを得るバンドも少なくないと言う。事務所のスタッフさんから言われヨコハマミュージックアワードという番組にエントリーすることになった。

FMヨコハマといえば、地元民には憧れのラジオ局だ。当時は、山下の車でどこへ行くにも3人で移動していたが、いつも車中で流しているのはFMヨコハマだった。正直、子どもの頃は、FMヨコハマは全国放送だと思っていた。神奈川県民にとっては、どメジャーな放送局なのだ。

当時、プライムカッツ(FMヨコハマでのパワープレイのこと)としてスキマスイッチさんの曲がよく流れていた。たしか「View」だったと思う。それが僕らは大好きで、はじめてスキマスイッチのお二人にお会いしたときは、ラジオで聞いていたひとが目の前に!と感慨深かったものだ。 

エントリーした楽曲は「真夏のエレジー」。深夜番組だったが、生まれてはじめてラジオで自分たちの曲が流れることに胸が高鳴った。実家にあったラジオコンポの前で比喩ではなく本当に正座をして、放送を待った。「恋は終わった」歌の最初のフレーズが流れたときは、素直に感動した。

「真夏のエレジー」は、歌謡曲のエッセンスが入った切なげな恋の曲だった。曲が終わると番組のDJさんが一言「いやぁ、いいねぇ!この曲はずるい!」と短いコメントをしてくれた。作風にただよう古めかしさを、褒めてくれた意味での「ずるい!」だった。すごく、すごく、うれしかった。

しかしコンテストは2位に終わり、僕らはその月だけで、エントリーから去ることになった。残念だったが数ヶ月後、思いもよらない話が、自分たちのもとにくる。「来年の4月から、いきものがかりにレギュラー番組を持たせたい」そう、FMヨコハマのスタッフのひとが言っているという。

その話を伝えられたときは、3人とも、それはそれは喜んだ。たぶんデビューが決まったと言われたときよりも喜んだじゃないかと思う。自分たちが聴いていた放送局に、自分たちの番組ができる。夢物語だったものが、少しずつかたちになっていくのを感じた瞬間だった。

当時、僕らを引き上げてくれたのがFMヨコハマの加藤ディレクターだった。深夜枠とはいえ、地元の海老名厚木でさえ、まだそれほどの知名度はなかった僕らを使うのは、抜擢という言葉以上のものだったと思う。デビューが決まる、ずっと前のことだ。

実際、番組をはじめてみると、当然だが、ただの素人の大学生だ、まったくうまくしゃべれない。それを加藤ディレクターは、いちから丁寧に根気強くアドバイスをしてくれ、マイクの前で話すということについて何もわかっていない僕らに、優しく教えてくれた。

デビューすると、 CDのプロモーションで各ラジオ局の番組に、宣伝のための2分から3分のコメントを送らせてもらう機会がたくさんある。デビュー当時はCDを出すたびに数十本のラジオコメントを録り、全国へ送った。1本3分でも、数が多いので、録音するだけで何時間もかかる。

この3分のコメントがなかなか簡単なようで難しい。自分たちの曲を送った先の放送局で流してもらうわけで、もちろんいい加減にやるわけにはいかない。しかし、そのコメント録りもF横で加藤さんに教えてもらったことが大いに役立ち、下手くそながらも、なんとかこなしていくことができた。

本職の芸人さんや、アナウンサーさんのように、見事にしゃべることは今でも求められるわけではないが(またそれは違うレベル)、人前で話すときの最低限の順序立てや、3人でのしゃべり分けを、FMヨコハマの番組で教わったんだと思う。

少し先の話になるが、デビューすると1、2年目は嵐のような忙しさだった。地方に行くことも頻繁だった。自分たちを冷静に客観視することなんて、なかなかできない状況だった。でも、そんななかで毎週FMヨコハマのレギュラー番組の放送時間だけは、必ず地元の神奈川のスタジオにいた。

なにがあっても、どんなに忙しくても、毎週必ず、地元のこのFMヨコハマへと生放送で帰ってくる。その時間が当時の僕らにとっては、気持ちをちょっとだけでも切り替えられる大事な時間だった。まさにホームといえる場所だったと思う。

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第11回』。

 

 

image.jpeg

年末年始のメンバーの様子をリーダーのツイッターから拝借させていただきます。 

紅白、CDTVの後 3人揃って初詣に行ったそうですよ

image.jpeg

 

いよいよデビュー10周年イヤーが幕を開けましたね♫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

いきものがたり まとめ5 (第7〜8回 ) [いきものがたり]



2015年12月9日

『第7回』

今日の1枚。
インディーズファーストアルバムの、ブックレット。


image.jpeg 




初めてのワンマンライブは、ひとまず成功と言えるものだった。「花は桜 君は美し」で始まったこのライブでは、「ノスタルジア」や「地球」など、デビューした後にも演奏を続けた曲目が、すでに披露されていた。

一応、セットリストのようなものがあったような記憶もあるが、ライブの流れなんてことを当時の自分たちが考えられるわけもなく、吉岡が舞台上で「あれ?次の曲なんだっけ?」と客に話しかけたりするような、そんな、よく言えば無邪気なライブだったと思う。

映像に残っているので実家などに帰ると、たまに見返す。「ひどいな、こりゃ」と笑ってしまうところも多々あるけれど、初めての楽しさが3人とも表情に隠しきれないほど出ていて、それはそれでお客さんにも伝わったようで、ライブは好評だった。

ライブが終わると、ライブハウスの照明スタッフさんが自分たちのところまでやってきて「こんなに楽しそうにライブする子たちひさしぶりに見たよ。なんだかこっちも楽しくなっちゃったよ。」と笑ってくれたのが嬉しかった。

実はこのとき、のちに、いきものがかりの初代マネージャーとなる女性が、ライブを見に来ていた。僕らにとっては、自分たちを世の中に引き上げてくれた母親のような存在だ。(お母さんと言うと、いつも怒られるが笑)

当時、別のバンドのマネージャーをしていて、そのライブハウスに出入りしていたその人は、ビジュアル系の強面バンドポスターが一面に貼られた壁に、笑顔のスナップ写真、変な名前の3人組のチラシを見つけ「なに、この子たち。おもしろそう!」と思ったそうだ。

実際ライブを見ると、ほとんどなにひとつ出来ていない。まさに素人。でも、曲と、歌と、3人の姿が、なんだかとっても面白い。ちゃんと育てれば、可能性がある、そう思ってくれたようだ。僕らはまだ気づいていなかったが、今に続く新しい出会いが、生まれ始めていた。

対バンというシステムすら知らず、いきなり「ワンマンライブをしたい」と言い放った若造に困惑したライブハウスの店長も、この頃にはすっかり応援してくれるようになっていた。何も知らない僕らに、店長は実に様々なことを1から教えてくれた。

そのなかで店長に勧められたのが、音源の制作だった。「1枚でいいから、ちゃんと音源をつくれ。デビューしたいって考えるなら、レコード会社のひとや、音楽事務所のひとに、まずは曲を聴いてもらわないと。そのために、音源がなきゃダメだぞ」

実に当たり前のことだが、その当たり前のことを、知らないのが当時の自分たちだった。店長の号令のもと、ライブハウスのスタッフさん総出で協力をしてくれ、音源をつくることになる。それがインディーズ1stアルバム「誠に僭越ながらファーストアルバムを拵えました。」だ。

レコーディングはライブハウスのホールをそのまま貸し切って行われた。メンバー以外の演奏者はみんな、ライブハウスのスタッフさん。ギターはPAさんだったし、ベースは照明さんだった。ドラムは同い年のブッキングスタッフさんで、キーボードは店長のバンド仲間。まさに手作りだった。

ライブハウスを借りられるのはたった1日。前日のライブが終わった夜からスタートしてほぼ48時間ぶっつづけで6曲をレコーディング。翌々日のライブが始まる直前まで。とてつもない強行スケジュール。でも、音源をつくれることが、嬉しくて、楽しい。ただ、それだけだった。

ライブハウスの近くにコンビニがあった。田舎なのでコンビニなのに自家製惣菜コーナーがある。弁当の余りの米を使ったんだろう、ライスボールというおにぎりみたいな商品があって、たしか1個数十円だった。それをレコーディング中、大量に買って、とにかくみんなで食ってた。

CDが出来上がるのは、今でも嬉しいものだ。ましてや初めてのときなど。ジャケットは、自分たちで写真を切り貼りして、コラージュのようにしてつくった。背表紙は当時の山下の、実家の部屋を写したものだ。歌詞カードは手書きだった。

工場でプレスされた初版の300枚が、段ボールに詰められてライブハウスに届いたときのことを覚えている。たしかその場に、ファーストワンマンでドラムを叩いてくれた友人がいて、彼が1枚目を買ってくれたはずだ。いきものがかりのCDを世界で初めて買ったひと、ということになる。

地元には当時、タハラというCDショップチェーンがあった。高校生の頃は、いつも学校帰りにタハラに立ち寄ってCDを眺めていた。そんな自分たちが通っていた店にも、CDを置いてもらえることになり、ライブハウスの店長と出来上がったCDを持って、挨拶に行ったりした。

サンダースネーク厚木には現在も入口に、当時、水野が手書きでつくったCDのポスターが貼ってある。さすがに12年ほど日光にさらされているので、色はあせているが、その頃に貼ったままの状態にしてくれている。

収録曲は「花は桜 君は美し」「歌姫」「ノスタルジア」「秋桜」「夏・コイ」「地球」の6曲。前述の女性マネージャーから「厚木で、おもしろい子たちをみつけた」と言われ音源を渡されたキューブの北牧社長は、移動の車中でその音源を聴いたそうだ。

「ノスタルジア」を聴き、絶対この新人をうちでやりたい。そう思ってくれたらしい。すぐさま女性マネージャーに電話をしたが、あいにく留守電で「こんなに”新人をやりたい!”と思ったのは久しぶりだ!」とメッセージを入れた。たしか、社長から聴いたのはそんな話だったと思う。

ワンマンライブの成功も、1回だけでは意味がない。その後は、数ヶ月毎にワンマンライブを企画して、そのために毎週どこかの駅へ路上ライブに出て、必死でチラシを配る。そんな日々を1年ほど過ごした。「真夏のエレジー」や「くちづけ」などの曲も、この頃、出来上がっていった。

余談だが、芸人の狩野英孝さんが新百合ケ丘駅で路上ライブをされていたのもおそらくこの頃。新百合ケ丘では、いきものがかりはなぜか全くお客さんを集めることができなかった。

ある時、駅の入口付近で男の子二人組が大きな人だかりを作っていた。駅前にファーストフード店があるのだが、その前の広場だ。その光景を見た記憶は、たしかにメンバー3人ともにある。新百合ケ丘でこんな人数を集めるのか…。とすごく驚いたのを覚えている。

ただ、それが当時の狩野さんだったかどうかは、わからない…。真実は闇の中…。




今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第8回』。
 
 
 
 
 


第8回
 
2015年 12月 15日
 
 
 
 
『第8回』

今日の1枚。
路上ライブでの3人。二十歳すぎ。         
 
 
 
 
 
CWP76atUAAEMGtn.jpg 
 




厚木のライブハウスで、僕らを”発見”(?)した初代マネージャーは、しかし、すぐさま自分たちに声をかけてくるわけではなかった。ライブハウスの店長には興味があることを伝えていたようだったが、僕らがそのことを知るのは、もう少しあとのことだ。

なので、1年ほど環境は変わらず、自分たちだけで活動をする期間が続いた。小田急線沿線を中心に、路上ライブで名前を売りながら、数ヶ月に1回、サンダースネークでバンドスタイルのワンマンライブを行う。

本厚木、海老名、相模大野、町田、新百合ケ丘、小田急多摩センター、藤沢、小田原、横浜、桜木町。路上ライブをした記憶がある駅は、上記の通り。この他にもあったかもしれないが、いま思い出せるのは、このくらい。

高校時代以上に、頻繁に路上ライブをするようになっていた。3万円くらいの小さなアンプスピーカーと、4トラックくらいだったろうか、これまた安いミキサーをお金を出しあって買った。ギターと少ない機材を山下の車のトランクに積め込んで、3人で各駅をまわった。

スピーカーを使って、マイクで吉岡の声を届ける。とても当たり前のことのようだけど、これが水野、山下の曲作りには少なからずの影響を与えた。高校時代は、マイクを使わず、いわゆる”生声”で路上ライブをしていた。そこには難点があった。

雑踏のなかでの”生声”は、そう簡単にひとに届くものでもない。たとえばバラードを歌ったとき、高い音域の音は、声を張って歌うことができるので道行くひとにも聞こえるが、Aメロなどの部分での低い音域の音は、かき消されてしまう。路上ライブにおいて「聞こえない」ことは、致命的だ。

だから吉岡が”生声”で歌っていた頃は、水野と山下はなるべく彼女が声を張って歌えるよう、高い音域のなかだけで歌をつくることに四苦八苦していた。それがマイクを使えるようになった途端、低い音域でも道行くひとの耳に届くようになった。これは、二人にとっては大きなことだった。

なんせ競技場が広くなったようなもので。いままで内野しか使えなかったのに、外野まで使って自由にメロディを作っていいよ、と言われたようなものだ。二人は喜んで曲をつくった。山下とは「あれは、俺らにとって革命だったな、あはは」と冗談半分で話すことがある。

「使える音域に制限がある環境」「歌うのが自分じゃなくて他人(しかも異性)」「曲作りの競争相手が目の前にいる」というような、なかば職業作家的な条件で、曲作りを覚えていったのは、よく言えば、自分たちを成長させるためには良かったのかもなと、いま、つくづく思う。

路上ライブミュージシャン独特の、「場の空気をつかむ」感覚がついていったのもこの頃だ。別にグループ名にかけたシャレではないが、もはや「動物的」とも言える感覚が当時の僕らにはあった。演奏をしている目の前の、空気を読んで、ライブをする力だ。

当時、路上ライブはまったく曲順などを決めずに臨んでいた。ライブ中に、その場で話し合う。だが、ある時期から僕らは、ライブ中にも曲順の相談をしなくなった。嘘のような本当の話なのだけど、目の前の客を見れば、次やるべき曲がなにかわかるのだ。話さなくても。

たとえば10人のお客さんが目の前にいるとして、それが全員女子高生なのか、家族連れなのか、会社帰りのサラリーマンなのか、バラバラなのか、それでその場に生まれる空気は全然ちがう。客層だけじゃない、客の立ち位置でも、距離でもちがう。それによって適する曲は変わってくる。

30mくらい先で、ひとを待って携帯を見るフリをしながら実はライブを聞いているひと。というのを見分ける力もあった。数十mも先に立っているひとに、吉岡が突然ピントポイントでチラシを渡しに行って「え、なんで聞いてるってわかったんですか」と驚かれることもあった。

だいたい目の前がどんな雰囲気で、いま自分たちの持ち曲の、どの歌がこの場に適しているか。3人の感覚はあの当時は本当にシンクロしていて、軽く目配せをし「ああ、次はこの曲だな」とちょっとうなづき合うだけで、ライブを進行していた。

だからライブハウスでの対バンイベントにたまに呼ばれるようになった頃は戸惑った。他の出演者のバンドが、客の空気をまったく読まないで「手をあげろよ!」「もっと前に来いよ!」と、強い煽りをする場面に出くわしたからだ

それじゃ、お客さんが聞き辛いだろうと僕らは思ったが「なんで、お前らは手拍子を煽らないんだ?」と逆に不思議がられることの方が多かったと思う。「客をもっと盛り上げなきゃ!」とはよく言われたが、肝心のお客さんは、それを求めている空気ではない。うまく理解できなくて戸惑った。

路上ライブとライブハウスの文化は全然ちがう。路上ライブは場を”読む”文化。ライブハウスは場を”つくる”文化。乱暴にまとめればそんな風に思えた。どちらが正しいというわけでもない。その文化の違いに最初は戸惑ったが、その両方を知ることができたのは、良い経験だった。

事務所に入ったのちも、大学在学中はずっと路上ライブを行っていた。しかしピークの動物的とも言える路上の空気を読む力は、不思議と消えていった。バンドスタイルのかたちでライブハウスで演奏することが、多くなっていったせいかもしれない。自分たちのライブ感覚が変化していったのだ。

ライブハウスでの動員は少しずつ増えていったが、路上ライブではひとが集まらなくなっていく。すごく不思議な感覚だった。デビュー直前の冬、横浜駅で路上ライブをした。デビュー曲となる「SAKURA」を演奏していたが、立ち止まったくれたお客さんは、なんと女子高生たったひとりだ。

やっと立ち止まってくれた女子高生ひとりに、必死で「SAKURA」を聴かせようと歌っていたら、よろよろと酔っ払いのおじさんが歩いてきて、その場にストンと倒れた。コツンと地面に頭を打った。近くのひとが救急車を呼んだ。もうそうなるとライブは続けられない。それで終わり。

実は、これがいきものがかり最後の路上ライブの顛末だ。その日から、本当の意味での路上ライブは一度も行っていない。

路上ライブというスタイルが背負う条件というものがあって、それが自分たちが音楽を届けるときのスタンスをかたちづくっていった。「客を選ばない」「客がそっぽを向いているところからスタート」僕らがポップをより強く志向していった理由は、路上の経験を抜きにして考えられないと思う。

 

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第9回』。

 

 

 

 

 

 



nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

秋旅 ~大阪から金沢へ~ 3 [徒然]



午後6時。。。。


予約の時間がやってきました♫




IMG_0422.jpg



   「 いたる 本店 」


という、居酒屋さんにね、今宵はおじゃましました。


このお店、非常に人気のお店で、
ボクは、その、いきものがかりのNEWRALツアー
の公演後に始めてお邪魔して
とても感銘を受けたのが最初でした。

去年もですね、小田さんの本多の森ライブ後に
お世話になっております。

居酒屋ですが、一品一品のレベルがとても高い、
バラスーシなお店です。





で、お店に着いたらですね、、

その上の画像の左の見切れ側に長蛇の行列が出来ていて、
びっくり仰天☆でした。。。

過去2回も混んでいましたが、そのような状況は無かったので、
やはり北陸新幹線開通前と後で
この金沢の街にはドラスティックな変化がおきた模様で。。

この夜、そんな実感を感じる出来事が他にも2、3ありました。


その辺の「金沢のなう」的話も、今回触れたいと思います。




IMG_0411.JPG

ビールでようやく落ち着きました [いい気分(温泉)]


店に着いてからココまでが全然落ち着かなくて。。

入る時に、先の行列の方々から羨望の鋭いまなこ[フリーダイヤル]
向けられ。。。

店の中にもウエイティングの列が。。あってですね。。

「なんで、、遅く来たキミが先に通されるん? [フリーダイヤル] 」

的な視線を容赦なく浴びせてくるのです。。[たらーっ(汗)]

食べ物の恨みはこわいです。。







IMG_0412.JPG 

お通しのバイ貝でございます。
肉厚でめっちゃ美味いです。




続きですけどね。。

いや、予約をね、ひと月前から入れておいたんですよ。
本当はもう少し遅い時間に取りたかったんですが、
既にそのタイミングで18時しか空いてなかった。。[たらーっ(汗)]

その位気合いを入れないと予約が取れないお店なんです。ここは

このバイ貝が来るに至るまでにもですね、
予約無しの飛び込みがやんや入ってきては
若い板さんに弾き返されてましたよ。。


人気店で食事をしようと思ったら
事前リサーチと、予約は確実にしましょうね [いい気分(温泉)] ほんと








IMG_0413.JPG


そんなイライラも、このお造りを見たらほっこり ♡
 
桶で出てきます。
カウンターの中で、板長さんと思われる方が
ひとつひとつの桶を手際よく盛ってらっしゃいました。 
 
バチかメジマグロ
ブリ
イカ
甘エビ
タコ
 
細かく覚えてないので(^^ゞ、画像みて簡単にしか書けませんが 
どの魚も旨い!






IMG_0414.JPG 

加賀野菜も食べたいということで、
こちら 「 金時草(きんじそう) 」 のお浸し
 
なんて言うんでしょう。。ホウレンソウとめかぶの中間??
そんな不思議な食感なのですが、これはおかわりするほど
気に入りました。 



IMG_0415.JPG 
 
出ました[黒ハート]
 
マストの 「 のどぐろ 」 です。
 
今回、焼きにしてもらいました。
 
ほんとはね、煮付けで食べたい感じだったのですが、
若い板さんに聞いたところ 焼きがおススメということで
お願いしました。 




IMG_0416.jpg
 
当然こちらへ [黒ハート] 
 
天狗舞 蔵出し純米です
 
のどぐろは、去年も金沢へ来たときに聞いたのですが、 
冬がやはりもっとも脂の乗りが良いそうなのです。
つまり煮つけは「冬」が季節。
この秋の時期は焼きが正解なのだそうですよ。
 
冬にも来ないとね~ ^^
 
 
 


IMG_0417.jpg
 
「 ずわいの甲羅焼き 」でございます。 




IMG_0418.jpg
 
ミソ [ハートたち(複数ハート)]
 
カニもですね。。。
11月6日の越前ガニ解禁の直前になぜおらは来たのか??。。。[もうやだ~(悲しい顔)]
って感じですよね。。。
 
来る時期間違えてますよ、ホント。。[バッド(下向き矢印)]
 
 
 
けど旨かったです♬ 
 
 


IMG_0419.jpg 
 
豚足の炙り
 
豚足は大好きなので、あれば必ず注文します
 
焼いてトロトロな感じより、蒸しの方が本当は好きです。
 
 


IMG_0420.JPG 
 
真イカのわた焼き
 
このイカは柔らかかった!☆
そろそろお腹がMAXだったのですが、ペロッ! とね♬
 
 




IMG_0421.jpg 
 
〆は 「 へしこ茶漬け 」 
 
これを見ながら、へしこを買って帰らなかった事を
めっちゃ後悔してます。。。[もうやだ~(悲しい顔)]
 
そのくらいへしこLOVERでございます。
 
 
今回もいたるさんにはお世話になりました ♬
超大満足☆ 






IMG_0423.jpg
 
そして最近恒例のバータイムへ。。
 
 
 
 
こちら、ちょっと思いつきで入った通りがかりの店で、
なんか雰囲気ちょっと好みじゃなかったので
一杯ひっかけて即出たんですけど、、、
 
なんか、勘定が高い。。。[眼鏡][たらーっ(汗)]
 
チャージがめっちゃ入ってる感じなんです。。。
 
「けっ。。ぼりか。。。 やられたな。。」
 
まあ、そんなクレーム付けるような額でも無かったので、
二度と来るまいと心に誓い退散。。。
 
 
今度こそはと、食べログで入念かつ速攻でサーチして 笑
ポイント高いお店に滑り込みました。
 
 
 
 
 

IMG_0424.jpg
( 氷の違いに注目 )
 
良いバーの私的基準は

「 ウイスキーのロック 丸氷  」
 
てのが、ありまして、
ようやく良いバーに落ち着けました。
 
 
そこで、もう40年この店でバーテンをしてらっしゃるという
店主と色々な話をしました。
 
明日、帰る前に何を食べるのがおススメか?聞いてみると、

おでんの 「〇〇〇」 
回転すしの 「 もりもり寿司 」
 
この2店をおススメだそうで。。。。
 
魚はもうたらふく食べたから、おでんかなと。。
 
「〇〇〇」のお店はあと2つ後くらいの記事で紹介します。
大当たりでした!
 
 
そこで、店主に、金沢っていうと、
近江町市場あたりの海鮮丼はどう??
と、聞いたんです。 
 
すると。。。
 
 
 「 海鮮丼て、刺身をご飯の上に乗せただけでしょ 」
 
 
との一言。。。。 
 
 
なるほど [フリーダイヤル]
 
この言葉には雷に打たれたような衝撃を受けました[雷]  笑
 
 
確かにそうですな。

寿司の方がはるかに多くの人の手間、仕事が入る。
 
さすが、バーテン40年 [晴れ]
 
 
 
話は、近江町市場の事へ流れてゆきます。。。
 
海鮮丼はあれでも、市場には去年同様 寄ってみたかったので 。
 
すると、バーテンさん。。。
 
 「 日曜日は市場休みだよ 」
 
と、衝撃のひとこと。。。[たらーっ(汗)]
 
 
けど。。けど。。
これだけ観光客が沢山集まってるのに。。。
生ガキとかウニを市場で去年食べたから
やっぱり食べて帰りたい~~ と、ボクは嘆きました。。。
 
するとバーテンさん。。。
 
 
 「 あの、牡蠣やウニの即売は地元では問題になってるんだよね~。。。
 
   本当は禁止されているんだよ、

   観光客向けに勝手にやってる輩がいるんだよ、、まったく [ちっ(怒った顔)] 」
 
 
 
これまた、、衝撃の一打 [雷]。。。。
 
去年、旨い旨いって食べていた。。。。。
 
 
 「 生ガキは金沢では取れないよ。。。
 
  まあ、そんなに行きたいなら明日、行ってみなさい。。

  他は休みでも、あの辺だけはやってるから。。。 」
 
 
 「 けど、市場が休み、魚が上がらない日なのに、
 
   そこで売ってる牡蠣だよ 、 考えてみれば分かるだろう。。[フリーダイヤル] 」
 
 
 
。。。。。。。。[たらーっ(汗)]
 
 
 
 
 
分かります [もうやだ~(悲しい顔)][もうやだ~(悲しい顔)][もうやだ~(悲しい顔)][たらーっ(汗)] 
 
 
この話には本当に衝撃を受けました。。。。
 
明日市場どうしよう。。。。
 
途方にくれましたが、 、、
 
その結果は次回の記事で [ー(長音記号2)]
 
 
 
 
ベテランバーテンさんの含蓄ある楽しい話と会話を楽しみ、
バーをにこやかに後にします [わーい(嬉しい顔)][揺れるハート]
 
 
 
 
 
しかし。。。。[たらーっ(汗)][たらーっ(汗)][たらーっ(汗)]
 
 
 
 
勘定が高い~~~ [フリーダイヤル] wwwwwwwwwwwwww 
 
 
チャージ盛り過ぎやろーーーーーーー!!!![爆弾] 笑 
 
 
 
 
もうね、、この時点で解りました。
 
金沢はね、今、真に 「 バブル 」 の時期なんです。
 
今稼いでおかないで、いつ稼ぐ。。。
 
そんなエネルギッシュな「気」をね、街全体から感じましたよ。 
 
 
次来る時はね。。
もう少しバブルがしぼんでるといいな~~~ [ふらふら] 
 
 
 
 
 
次回4へ つづく 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 





















nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

秋旅 ~大阪から金沢へ~  2 [徒然]


かな~~~り、間が空いてしまいました。。。(^^ゞ

 
          ( お・ひ・さ♡ [ドコモポイント]  )
 
 
 
。。。。[たらーっ(汗)]
 
 
小ヨシも久し振りです。。。もう死んだかと (^^ゞ 
 
          ( ころすか?、、おい [ドコモ提供]  ) 
 
 
 
こういう茶番。。久しぶりにやってみたくなりまして (^^ゞ
 
         ( 元気についったーもやってるぜ、おれ  [ドコモポイント][るんるん]  ) 


 
 
 
まだ、喋ってる (^^ゞ
 
        ( かぎ外せよ、こら  [ドコモ提供]  ) 
 
 
。。。。[たらーっ(汗)] 
 
 
 
小ヨシ垢の鍵、外したら私の表でのイメージが。。。。(^^ゞ
 
      ( 保身に走るヨシゾー107はえふよこ30 [ドコモ提供] )
 
 
 
 
 
本題に入りましょう [わーい(嬉しい顔)][たらーっ(汗)]
 
       ( くっくっく。。。  [ドコモ提供]  ) 
 
 
 
 
 
 
 
小ヨシなんて、もう誰も覚えてないよね~~ (^^ゞ
 
      ( 暴れるよ、暴れていいよね?、おい  [ドコモ提供] [爆弾]  ) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
すみません。。。(^^ゞ
 
 ( すらいでぃんぐ土下座 [ドコモ提供][たらーっ(汗)]  ) 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここからブログっす [いい気分(温泉)] 
 
 
 
 
063.JPG
 
 
朝です! 快晴! ホテルのロビーから
 
 
 
 
059.JPG
 
 
朝食!
 
 
 
 
イマイチ!(笑)
 
いや。。オムレツは作りたてで美味しかったのですが、
その他は良い印象をあまり受けませんでした。。
 
 
それにしても、、
この朝食会場のカフェレストランも
音楽がうるさい。。。もう閉口しました。。
 
昨夜もバーでうるさい体験をしてるので、、

もう、このホテルには来ないでしょうね。。 
 
 
 
 
 
 
 
065.JPG
 
インターコンチネンタルホテル大阪でした。
 
 
 
 
 
075.JPG
 
 
サンダーバード号で金沢を目指します。
 
大阪からサンダーバードに乗るのは、これが2度目で 、
前回は記事にも書きました。
「NEWTRAL」ツアー最終日後、小浜へ向かった時ですね。
 
 
 
その時より、駅が全然綺麗になっていました。 
 
 
 
 
079.JPG
 
懐かしのサンダーバード号
 
 
 
 
 
080.JPG
 
 
乗ります
 
 
 
 
084.JPG
 
 
大阪駅構内で大好きな「八天堂」を発見してて
 
車内で昼食です。 
 
 
 
 
086.JPG
 
 
スタバのダブルラテと初めて食すクリームクロワッサン 
 
美味い! 
 
至福のひとときでございます♬ 
 
 
 
 
 
 
 
089.PNG
 
 
こうしてみると距離がありますね。
上へ上へと登ります。
 
途中、琵琶湖がとても綺麗でした 
 
 
 
092.JPG
 
 
2時間40分程で到着!
 
結構乗ります。
 
東京~新大阪とほぼ同じ時間です。
 
 
 
image.jpeg
 
 
 
1年2か月ぶりの金沢はやはり雨。。。。。
 
北陸旅行で晴れは期待してはいかん、、と思いつつね。。
 
前回は小田さんのライブで台風を避けて前ノリしたのでした。 
 
 
 
この駅ね、日本で一番カッコいい駅だってのは変わりません。
 
金沢の街も、もっかのところ日本で2番目に好きな街 
(一番は小浜)
 
テンション上がっております♬ 
 
 
 
 
 
image.jpeg
 
今回、ほんと、北陸の旨い魚をたんまり食べたいがために、
金沢へ来たようなものなのですが、、笑
 
夕方の予約の時間まで、いささか時間があったので、
とりあえず21世紀美術館へとやってきました。 
 
 
 
 
 
image.jpeg
 
有名な 「レアンドロのプール」
 
その、、前にここを訪れた3年前はこれ見てないんです。。
 
やはり不思議な感覚でしたね~ 

 
 
 
image.jpeg
 
こちらは「金沢歌劇座」
 
山下達郎氏がライブをやるハコですね。
本多の森ホールではなく、何故ここなのか。。?
 
しかし、古さとともに雰囲気ありましたね。
「歌劇座」ってネーミングが先ずそそります。
 
 
3年前、「NEWTRAL」のライブ会場でありました
本多の森ホールへは、21世紀美術館から徒歩で向かったのですが、
今回はそのルートを踏襲してみました。 
 
 
 
 
image.jpeg
 
 
最寄りの県美術館へと繋がる裏路地をウネウネ行きます。。。 
 
こういったところもいちいち雰囲気あります。 
 
 
 
 
image.jpeg
 
いきなり目の前が開けて赤レンガが
 
この辺りは非常に趣がある街並みなのです。
 
金沢へ行かれましたら是非、兼六園だけでは無く。。
 
ほんと直ぐ隣が兼六園なのですが、、

この県美術館~赤レンガ付近も散歩してみて下され♪ 
 
ちなみに本多の森ホールもすぐそこです。 
 
 
 
 
image.jpeg 
 
夕焼け
 
そろそろ魚を頂きに。。。。♬ 
 
 
 
 
次回は金沢グルメ編! 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:旅行

「いきものがたり」まとめ 4 (第5〜6回) [いきものがたり]


2015年11月24日 第5回    

 『第5回』

 

今日の1枚。
サンダースネイク厚木、
2003年6月のライブスケジュールが書かれたチラシ。
初めてのライブを行う、いきものがかりの名前がある  

image.jpeg 

 

やっと活動を始めることを決心してくれた吉岡。物事の歯車は、それまでのことが嘘だったみたいに、くるくると動き出した。水野と山下は、浪人時代に学習室の休憩スペースで語り合っていた”計画”を、少しずつ実行に移していく。

まず最初にしたのは高校時代のバンド仲間に声をかけること。「自分たちのバックバンドをしてくれないか」”サポートミュージシャン”という言葉をまだ知らなかった。まだライブハウスで一度もライブをしたことがないのに、いきなりバックバンド。そんな無茶なことを考えたのには理由がある。

水野と山下で決意していたことがあった。この道に挑むのなら「路上ライブのスタイルを、捨てよう」そう二人で決めていた。

もうその頃には、ゆずのお二人は確固たる地位を築いていて、そのあとに出てきた路上出身グループも、実力のあるひとたちを残して淘汰されはじめていた。そもそも地力のない自分たちが、ゆずさんと同じようなスタイルで、世に出られる気がしなかった。

路上ライブのアコースティック編成を押し出すかたちでは自分たちは世に出られない。J-POPや歌謡曲が好きで、本来は様々なタイプの曲をつくりたいのに出自である路上スタイルに固執したら、それが十分にできない。当のゆずのお二人でさえ、多様なサウンドスタイルにもう踏み込んでいた。

ゆずという大きな存在が登った山を、後から登ろうとしても勝てるわけがない。自分たちの山を、自分たちの手でみつけなければ…。演奏は素人同然、つまるところ男子二人がつくる曲と吉岡の歌しか武器はないのだから、それを最大限に生かせるスタイルをみつけなければ。そう思っていた。

どんな曲でも可能になるバンドスタイルになれないか。でも自分たちが3人であることは崩したくない。どうしようとなって、そこで恥ずかしさを知らない奇想天外なアイディア「バックバンドをつけよう」という言葉が出てきた。素人考えの勢いで、ただ突き進んでいるだけだったと思う。

高校時代のバンド友達に声をかけると、快く引き受けてくれて、すぐにドラム、ベース、キーボードのメンバーが集まる。ついでに高校時代、エレキを多少は弾いたことがあるからという理由で、自分が”アコギ”から”エレキ”に転向することになった。もう、恥ずかしいくらい、ざっくりしてた。

そのとき集まってくれた友人たちはそれから約1年、ほぼボランティアで活動を助けてくれた。練習スタジオの料金を割り勘で払ってくれたりまでした。3人きりだった僕らに、まず最初に手を差し伸べてくれたのは彼らだ。彼らがいなくては何も始まっていない。本当にすべてが、始まっていない。

ちょうどその頃、地元に新しく出来たライブハウスがあった。駅前でチラシをもらったとかでその存在を知った吉岡が、事前に電話で問い合わせてみたら、対応がすごく丁寧でよかったと言う。では、そこを訪ねてみようとなって、山下とそのライブハウスを訪れた。

サンダースネーク厚木。名前のいかめしさそのままに、そこはバリバリのハードロックスタイルのライブハウスだった。受付の壁一面に、無数のビジュアル系のバンドポスター。店員さんはみんな長髪。店内で初めて会話した店長だという男性は、金髪でシルバーアクセサリーをしていた。

「あのぉ〜すみません。ライブしたいんですけれどぉ〜」「おぉ、ライブ。いいねぇ。君たち、学生さん?お友達のバンドとかはいるかな?」「あぁ〜いません」「だと仲間のバンドをみつけるか、うちのブッキングの審査を…」「あぁ〜僕たちだけでライブしたいんです」「ん?え?」

一応、説明しよう。通常、インディーズのバンドというのは集客が少ないところから出発するのが当たり前で、自分たちの客だけではライブが成り立たない。だから仲間のバンドを呼んで自前でイベントを主催するか、ライブハウスのブッキングでチケットノルマを果たしつつイベントに出るか。

ようは「対バン」と呼ばれるかたちで、ライブをこなしていくのが、最初のスタートラインなのだ。逆に、自分たちだけで成立させるライブのことを「ワンマンライブ」という。活動したてのバンドが、まずひとつの目標にするのが、この「ワンマンライブ」の実現だ。

だから当然、ライブハウスの店長は、突然やってきたどうみても素人同然のあどけなさ残るこの学生たちが「自分たちだけでライブやりたいんです(=ワンマンライブやりたいんです)」と言い放ったことに、目がテンになってしまったのだ。

ただ、店長は優しかった。ものを知らぬ学生なのだろうと、瞬時に察してくれたんだろう。「き、き、君たち、対バンってシステムは知ってるかな?」「知らないっす」嘘だと思うかもしれないが本当の話である。僕らは、大人の対応をしてくれた優しい店長にそう言った。だって知らなかったから。

「き、き、君たち、ライブハウスでライブしたこと、あるかな?」「いや、ないです。はじめてです」「そ、そ、そうだよね」「路上ライブならしたことあります」「路上?…あぁ、駅前とかでやるやつかな?」「そうです」「う、うん。路上とライブハウスは違うからなぁ…あはは…」

「あ…いや。もう一度聞くけど、えっと、君たちだけでライブをやるってこと??」「あ、はい」「そ、それは難しいんじゃないかなぁ、あはは。まずは対バンで他のバンドと…」「え、だって、ミスチルだって、ドリカムだって、ひとつのバンドでライブやってるじゃないですか?」

信じるか信じないかは、あなた次第…。ではない。本当に僕らはこのセリフを吐いたのである。知らないとは恐ろしい。知らないことの強さはすさまじい。若すぎて、バカすぎた。世の中のバンドマンの誰もが呆れかえるこんなセリフを吐いた幼き僕らに、キレなかった店長は優しすぎる。

バカだった。が、しかしバカなりの自信が、なぜか僕らにはあった。「う、うちのハコは、キャパ300人だよ…?300人もお客さん集められないでしょ?」「いや、大丈夫だと思います」その数ヶ月後、優しい金髪の店長は、この恐ろしく世間知らずの若者たちの、奇跡を見ることになる。

 

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第6回』。

 

image.jpeg

 

image.jpeg

この日いきものがかりはRADWIMPSがホストの対バンライブに出演しました。 

 

 

第6回 2015年12月3日

 

  今日の1枚。
2003年、初めてのワンマンライブのチラシ。  

 

ikimono123.jpg 

 

 

 

ライブハウスで一度もライブをしたことがないのに、いきなりワンマンライブをする。サンダースネーク厚木の店長もびっくりドン引きの無謀チャレンジ。がしかし、本人たちには、その自信に根拠がないわけじゃなかった。

高校時代の路上ライブを応援してくれていたお客さんたちが、まだ自分たちのことを気にかけてくれていた。「また、いきものやらないの?」と、何度もいろんなひとが声をかけてくれて、そのひとたちが、戻ってきてくれるんじゃないかという気持ちがあった。

それに当時は学生で、友人たちにも声をかけるつもりだった。「対バン」というシステムさえ知らなかった当時の僕らに「友達にはチケットは売らない」というような、バンドマンの清廉なプライドのようなものがまだあるわけもなく、来てくれるなら友達でも、家族でも、みんな来て欲しかった。

4月には、路上ライブを再開。路上ライブでチラシを配り、そこで心をつかんだお客さんたちに、ライブハウスに足を運んでもらう。簡易的なホームページをつくり、ライブで配布する歌詞入りのパンフレットもつくった。細かい作業ばかりだったけれども、素直に楽しんでいた。

実は、活動休止をしているあいだも、水野と山下はそれぞれに曲だけはつくっていた。音大で壁にぶつかって「歌いたくない」と言っていた吉岡が、いつやる気になってもいいように、ワンマンライブができるだけの楽曲を用意してあったのだ。

のちにシングル曲となった「花は桜 君は美し」や「ノスタルジア」も、その頃につくった楽曲だ。格好をつけてうんと良く言えば、自分たちの音楽の骨格のようなものを、知らず知らずのうちに、この頃につくっていたと言えるのかもしれない。

たまっていたオリジナル曲を、ライブでサポートメンバーをしてくれる高校時代の友人たちと、練習スタジオで合わせていく。楽曲のアレンジなんてしたことがない。手探りもいいところで、もうとにかく手当たり次第、思いついたことをみんなでやってみる。それがすごく楽しかった。

お金もなかったのでサンダースネークに併設されている練習スタジオを深夜割引で借りて、朝までよく練習した。楽しかったけれど、負担も大きかったと思う。本当に根気強く、練習に付き合ってくれたサポートメンバーの友人たちには感謝しかない。彼らは当時、就職活動もしていたというのに。

あるとき、活動をするうえで少し理不尽なことがあった。今から考えれば小さなことだったかもしれない。でも、まだ僕らも覚悟が足りない頃で戸惑っていた。そんなとき、ベースを弾いてくれた友人のK君が、スタジオの近所のラーメン屋で、笑顔で僕らに言ってくれた。

「まぁさ、"正しいことをするには偉くなれ"ってワクさんも言ってたじゃん?」当時、大ヒットしていた映画の「踊る!大捜査線」で、いかりや長介さん演じるベテラン刑事が呟いた名台詞だ。「俺らさ、いきものはきっと大きなところにいけると思うんだ。がんばってよ。」

映画のセリフを持ってきて冗談のようにかけてくれた言葉だったけれど、それから今まで、なにかどうしようもない理不尽にぶつかったときは、3人の合言葉として、K君が笑顔で言った「正しいことをするには、偉くなれ」を思い出した、必ず、苦笑いしながらでも、3人で言い合った。

自分たちの活動にとって”正しいこと”は、その時代ごとに違うのかもしれない。変わっていったことも、もちろんあるだろう。だけど逃げずにやってこれたと、今、少なくとも心のどこかで思えているのは、その言葉のおかげのような気もしている。

2003年6月2日。サンダースネーク厚木の楽屋に、いきものがかりの3人と、その3人を助けようと、世の中でいちばん初めに手を差し伸べてくれたサポートメンバーたちが、ライブの始まりを待っていた。

サンダースネークはハードロックスタイルのライブハウスだ。他のライブハウスにはない大きな売りがある。なんとステージ上に緞帳代わりの電動シャッターがあり、ステージがガレージのようになっているのだ。ライブが始まるとシャッターが音を立てて上に開き、その奥から出演者が登場する。

客席からは、なかなかに壮観な光景になるのだけれど、演奏する側からすると、ステージ上に待機しているときは、目の前が無機質なシャッターで、その向こうにいるお客さんの様子を伺い見ることが出来ない。とてもドキドキするのだ。ましてや、はじめてのワンマンライブだ。

1曲目に選んだのは「花は桜 君は美し」。頭サビ。今では自分たちの定番のスタイルだ。もう6月で、すこし季節はずれな曲だったのかもしれない。遅すぎる春だった。僕らにとっては、ほんとうに、待ち遠しい、春だった。

目の前の電動シャッターが動き出す。ついに幕が開く。「花は桜 君は美し」のイントロを弾き始めた。少し手が震えた。吉岡が歌い出す。頭サビを歌いきったときシャッターが開いた先に300人の顔があった。笑っていた。

一生忘れられない光景だ。
僕らの人生が、始まった瞬間だった。

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第7回』。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。