いきものがたり まとめ 9 (第13回) [いきものがたり]
今日はすこし横道にそれて、デビュー前夜の頃。…の自分語りです。
まとめ② 超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」 13~24 [超セルフライナー]
2016年1月27日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
13.「月夜恋風」
これも二十歳くらいに書きました。
秋の夜長、月を眺めながら夜風に撫でられたら。
そんな少しだけ贅沢な時間を…
(山下)
1月28日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
14.「おもいでのすきま」
インデイーズの頃を思い出すんですよね。
当時20歳そこそこだった自分たちからすると、
すこし背伸びをした、おしゃれな曲だったように思います。
歌のなかの主人公の二人って、
どっちも容姿端麗だと思うんですよね笑。
なぜだろう、そんな気がして。
かっこいい曲を書くもんだな、山下くんは。
そうあの頃も思いました。
(水野)
1月29日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
15.「恋詩」
この曲は、実はインディーズ時代に、
ライブハウスでワンマンライブを行っていた時から演奏していた曲です。
当時から、格好良くて激しい曲というイメージがありました。
ホーンセクションの演奏も際立っていて、
素敵な1曲になりました!
(吉岡)
1月30日
【超セルフライナーノーツ“~本日の一曲~”】
16.「夏空グラフィティ」
(山下)
1月31日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
17.「夢題〜遠くへ〜」
この曲に出会ったのは17歳の頃。
山下が文化祭のために、たった数日で仕上げてきた3曲のなかの1曲でした。
山下とはずっとライバルですからね。曲を作り出した、その頃から。
目の前にライバルがいながら互いに成長していくって、
それは幸せなことですよ。たぶん。
(水野)
2月1日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
18.「プラネタリウム」
この曲のイントロのストリングスを聴くだけで、
何故だかぐっときてしまいます。
サビに「悲しみの夜を越えて」という歌詞があるように
寂しさや切なさを感じる曲ではあると思いますが、
曲もアレンジも、優しい輝きを放っている1曲になったのではないかなと思っています。
ミュージックビデオでは、
いきものがかりメンバーと同じ衣装を着た3体の人形が出てきたりと、
ファンタジックな世界観になりました。
(吉岡)
2月2日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
19.「歩いていこう」
ジャケットがまさかの本物のウサギとカメ使用。
PVが「架空の映画の番宣」みたいになってるので見てみてー!
(山下)
2月3日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
20.「帰りたくなったよ」
いつかのライブツアーのとき、ラストにこの曲を歌ったんです。
そうしたら目の前の親子連れ、お母さんが、
小学生くらいですかね、娘さんの肩を抱いて泣きながら、でも笑顔で、
この歌を聴いてくれていました。
そういうときですよね。歌をつくってよかったなと思うときは。
「帰りたくなったよ」というタイトルではあるけれど、
帰る場所がもう無いひと、
帰りたくても帰れないひと、
手を振ってくれるひとがもう会えないところにいるひと、
にこそ聴いてほしい曲です。
(水野)
2月4日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
21.「なくもんか」
映画「なくもんか」の主題歌としてつくらせて頂いたこの曲は、
曲のタイトルも「なくもんか」になりました。
いきものがかりのツアーでバンマスをやって頂いている
本間昭光さんに、初めてアレンジして頂いた、
いきものがかりの曲でもあります。
主人公の抱えているさまざまな葛藤や切なさが描かれている楽曲でもあり、
それでいて、暖かみのある1曲になったのではないかなと思っています。
この曲のシングルのCDジャケット撮影時には、
メンバー3人共が、着ぐるみを着て撮影をしました。
ジャケットに写っているピンク色のうさぎは、
まぎれもなく私、吉岡です。(笑)
そしてこの曲のMVでは、
メンバー3人が演技らしき事(?)に挑戦しています(笑)
こんな風に、沢山のエピソードが出てくる1曲でもあります。(笑)
(吉岡)
2月5日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
22.「ハジマリノウタ~遠い空澄んで~」
唯一のアルバムのタイトル曲ですね。
「僕が生きた「証」を残そう
それをいつの日か「夢」と名付けよう」(だったかな??)
ってとこが個人的には気に入ってるフレーズでやんす。
(山下)
2月6日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
23.「気まぐれロマンティック」
アレンジャーの江口さんがデモをつくってくれていて、
それがドラマのスタッフさんの耳にとまったんですよね。
だからこの曲を世に出せたのは江口さんのおかげだと思っています笑。
当時は「サンデーモーニング」という仮タイトルがつけられていたこの曲。
ミュージックビデオでは、メンバーのコスプレが印象的。
ディレクターの田口さんは「これがボクの渋谷系へのアンサーです」と言っていました。
当時の勢いがつまった、躍動感のある曲となりました。
(水野)
2月7日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
24.「うるわしきひと」
可愛らしくて、透明感がある曲だと思っています。
ちなみに、この曲のミュージックビデオの撮影の時に、
私はおたふく風邪になりかけていたらしく、
ミュージックビデオをよく見ると、
私の頬っぺたがいつもより少しだけ膨れています(笑)
(吉岡)
まとめ① 超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」 1~12 [超セルフライナー]
2016年1月15日
本日よりベストアルバム「超いきものばかり」収録全60曲のメンバーによるセルフライナーノーツ企画、「超セルフライナーノーツ『〜本日の一曲〜』」がスタート!メンバーがくじ引きで曲を選び、それぞれが自由に綴ったライナーノーツを、リリース日に向けて毎日ランダムに一曲ずつ公開していきます!
ということで、記念すべきスタートを飾る一曲目は…?そして語ってくれるのは…!!
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
1.「花は桜 君は美し」
インディーズ時代、初めてのワンマンライブの一曲目を飾った思い出の曲です。
路上ライブでもこの曲でよく人を集めてました。
(山下)
本日スタートの超セルフライナーノーツ「〜本日の一曲〜」。
初回は山下穂尊が綴る「花は桜 君は美し」、でした。
この企画、毎日一曲ずつ特設サイトと両方で公開していきますが、
ツイッターでは当時のアーティスト写真と共に公開!
お楽しみに♪
1月16日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
2.「YELL」
前年のアンジェラ・アキさんの「手紙~拝啓 十五の君へ~」がとんでもない名曲で。
NHKの合唱課題曲、その後を受けた僕らにとっては大きなプレッシャーでした。
最初NHKから頂いた曲のオーダーは前年からイメージを変えて、
アップテンポの明るい曲を、というものでした。
オーダー通り、アップテンポの曲も書いてはみたんですが、
どうしてもしっくりこなくて。
自分が中学生だった頃を思い出すと、
全然、この曲の世界観じゃないよなぁって思っちゃって。
僕はひねくれた、
暗い生徒だったんでね笑。
それでバラードも書いたんです。
勝手に。
笑。
初めて放送でこの曲が流れたとき、
ずっとお世話になっているピアノの先生からメールが来て。
「あのときの、思い悩んでいたときの、
中学生のあなたを見ているようで涙がこぼれてしょうがなかった」
と。
そのメールを見て「書けたんだなぁ」とやっと思えました。
(水野)
1月17日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
3.「キミがいる」
ドラマ「ホタルノヒカリ2」の主題歌として制作していった曲です。
私が初めてシングル曲を書かせて頂いた1曲でもあります。
ドラマ「ホタルノヒカリ」を観たり、
「ホタルノヒカリ2」の台本を読ませて頂きながら曲をつくっていったのですが、
ドラマの主人公が同世代ということもあり、
感情移入しながら曲をつくっていった思い出があります。
島田さんのアレンジで、曲がキラキラしていって、
爽やかさのある曲になったのではないかなと思っています。
ライブでは、タンバリンを持って歌うのが定番になっています!!!
(吉岡)
1月18日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
4.「あなた」
「貴様」だと意味合い変わりますね。
しかし、昔は相手を敬う言葉だったのですよ。
なんせ「貴い」「様」ですから。
(山下)
1月19日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
5.「ホットミルク」
実は少しだけ、僕が歌詞を書いている部分があるんですよ。
もう、どこを書いたかも忘れてしまったけれど笑。
ディレクターの発案で「水野、歌詞書け」ってなって。
もう、どこを書いたかも忘れてしまったけれど笑。
ディレクターの発案で「水野、歌詞書け」ってなって。
山下が書いたメロディに歌詞を書こうとするんですが、
発音のハマりに関して、お互いに納得できる感じに、
どうしてもならない。
山下がもっているメロディのイントネーションと、
僕がもっているメロディのイントネーションとが、
全くの別モノなんだなと、深く認識した経験でした。
だからそれ以来、お互いの作品に関わることはやめよう、
お互い独立して書こう。そうなりました。
それでよかったと思います。
(水野)
1月20日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
6.「KISS KISS BANG BANG」
この曲は、「十六茶」のCMソングとして作っていった曲です。
「女神(Venus)だって Chu Chu Chu Chu」
という歌詞だったり、
アレンジも元気で華やかで、
“キュート”な雰囲気の曲になりましたね。
この曲の歌入れの日は、私はちょっと鼻声だったんですが、
歌入れが終わってからディレクターさんに、
「それはそれで曲に合っているよね(笑)」
と言われたのを覚えています。(笑)
パワフルな曲でもあるので、
そこも楽しんで頂けたら嬉しいです!!!
(吉岡)
1月21日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
7.「LIFE」
去年のツアーのアンコール一曲目。
演出のドットイメージが綺麗でしたね。
さぁ気になったそこのあなた。
DVDをチェックしよう!
(山下)
1月22日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
8.「笑ってたいんだ」
震災が起きた頃、書いていた曲でした。
それまで、なかば使い古していたはずの言葉たちが、
急に新たな濃い色を放つようになって、戸惑いました。
「ヒーローなんていらないよ ぼくはきみの言葉が欲しい」
あふれだした正義や美談がどこか怖くて、嫌で、
そんな歌詞を書いたんだと思います。
(水野)
1月23日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
9.「赤いかさ」
この曲は、いきものがかりメンバー3人が高校時代からあった曲です。
確か、リーダーがいきものがかりの楽曲としてつくっていった、
1曲目か2曲目だったと思います。
男子2人のいきものがかりに私が加入してから、
地元の神奈川・本厚木駅の前で、よく歌っていました。
当時はまだ、
いきものがかりのオリジナル曲も少なかったですし、
よく歌っていましたね。…
切ない恋の物語ではあるんですが、
メロディーに温かみがあって、
曲の主人公は、最後には前向きになっていきます。
アレンジして下さった西川進さんのギターサウンドも、とっても素敵です!
(吉岡)
1月24日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
10.「真夏のエレジー」
初っぱな、「♩恋は終わった~…」。
ネガティブを極めております。
2003年の夏を思い出す一曲です。
(山下)
1月25日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
11.「ブルーバード」
すごい短時間で書けた記憶があります。
一筆書きみたいな。
僕らの曲のなかで、最も海外で聴かれた曲かもしれません。…
「NARUTO」の主題歌としてアニメを通して、広く知られました。
英語圏のひとたちが、このメロディを気に入ってくれたことは、
僕にとって希望です。
(水野)
1月26日
【超セルフライナーノーツ“〜本日の一曲〜”】
12.「ラブソングはとまらないよ」
この曲の主人公は、ただ無邪気に恋をしているだけじゃなく、
自分の中にちゃんと1つ芯を持った女性なんだなぁと感じながら、歌っていました。
この曲のミュージックビデオには、
恋をしている女の子のいろいろな表情が詰まっていて、
透明感のある素敵な作品になりました。
(吉岡)
まとめ②へ つづく
いきものがたり まとめ 8 (第12回中編~12回後編) [いきものがたり]
『第12回 〜中編〜』
ここらへんの話は、一気にいきます…。
ディレクターに鍛えあげられているまさにその最中だったと思う。2005年の初夏だったろうか。レコード会社主催のショーケースライブを、渋谷のDuoという少し大きめのライブハウスで行うという。ショーケースライブ。「ぎょーかいじん」が来る、あれだ。
これからデビューを控えるエピックレコードの新人を、各メディアやイベンターのひとたちにお披露目するライブだ。たしか、全部で7組ほどだったろうか。いきものがかりも、そこに出るということになった。
出演者は全員デビュー前。アンジェラ・アキさんや中孝介さんもそこにいた。お二人とも当時から素晴らしかった。異色なところではAkeboshiさんもいた。リハーサルで初めてAkeboshiさんのライブを観て山下と「いやぁ…天才っているんだなぁ」と二人で話したのを覚えている。
ライブのパフォーマンスについても当時僕らは多くの指導を受けていた。MCがダメだということらしく、ちゃんと準備しろときつくいわれ、今では考えられないがMCの台本を、こと細かく水野が書いた。「うん」という相づちまで一文字残さず書いた。今なんて、何も考えず舞台に上がるのに。
衣装の方向性も決まっていなくて、なぜか吉岡はタイトなスカートに、ブーツのようなものをはかされて、彼女本来の性格とはずいぶんちがう格好をさせられていたと思う。もうほんとあの頃は、なにからなにまで、めちゃくちゃだったなぁと笑ってしまう。
そのライブ用に宣材写真を撮らなきゃいけないとなって、初めてスタイリストさんやメイクさんが入って、ロケをして撮影した。水野は、なぜか髪を立ち上げて、オールバックのような髪型にされた。ピッチピチの赤いTシャツを着させられて。ほんと、あれ、なんだったんだ。笑。
会場にはテーブルが用意されていて、さまざまな業界の関係者たちが、席についていた。ひとつひとつ、出演者の紹介と、パフォーマンスが行われていく。いきものがかりは「コイスルオトメ」と「ホットミルク」を演奏した記憶がある。あれ、違ったかな。緊張もして、あまり覚えていない。
パフォーマンスのときの記憶よりも、そのあとのことのほうが、強く印象に残っているからだ。今からすれば、笑い話だけれど、ちょっと悔しかった、記憶。
すべての新人のパフォーマンスが終わると、ライブに来てくださった各関係者の皆さんとの「ご挨拶タイム」みたいなものがセッティングされていた。これからデビューする新人を、いろんなメディアのひとにちょっとでも覚えてもらおう。レコード会社としては、当然の売り込みだ。
だが、その”ご挨拶”がなかなかにすごいスタイルで行われる。みんなアーティスト名が書かれたプラカードを持たされるのだ。各テーブルにはメディアの人達やCDショップのバイヤーさんなど関係者が座っていて、その間をプラカードを持ってラウンドガールのように練り歩く。本当の話だ。
ま、そういうことは、僕らはわりとおもしろがってやってしまうほうなので、「ひでぇな」って思いながらもキャッキャとふざけて、はしゃぎながらプラカードを高く掲げて、各テーブルをまわりはじめた。でも、そこからだった、つらかったのは。
7組すべてのアーティストが会場をまわるのだけれど、それぞれで「まわる時間の差」が生まれてくるのだ。
どういうことかというと、パフォーマンスが評価されたアーティストは各関係者の皆さんも社交儀礼の挨拶だけじゃなく、熱いコメントをしてくれて、自然と会話が長くなる。評価されないアーティストは会話も弾まず、しまいには流れ作業のようになって、あっという間に挨拶が終わってしまう。
関係者の方々の目というのはプロである以上、シビアだ。自分が「このアーティストは伸びる!」と思ったら、そこに情熱をかたむけてくれるが、「これはダメだな」と思ったら、どうしてもドライな態度になる。責めているわけじゃない、それぞれの世界のプロとして、当たり前のことだと思う。
僕らは、7組中、もっとも早く、挨拶が終わってしまった。20分くらいで終わってしまって、あとはずっと会場のいちばん後ろで、プラカードを持って、ぽつんと3人で立っていた。
さっき「よろしくお願いしますっ!」と元気いっぱいで挨拶した吉岡に、苦笑いで「まぁ、がんばってね」と言った男性が、目の前でアンジェラアキさんに「いやぁ!素晴らしかった!」と飛びつかんばかりに話しかけている。当然だ、アンジェラさんのパフォーマンスは、本当に素晴らしかった。
ああ、オレら、ダメだったんだなぁ。話は簡単だ。良いパフォーマンスが出来なかった自分たちが悪い。会話が盛り上がり、いつまでも挨拶回りが終わらない、他のアーティストさんたちの背中を、いちばん後ろでながめながら、自分たちは本当にデビューできるのかなぁとぼんやり考えていた。
でも、誰もが見向きしてくれなかったわけでもなかった。ほんの数人だったかもしれないけれど、ちゃんと情熱を持ってコメントしてくれるひともいた。そのひとたちは、その後、自分たちの活動を、本当にいろんなかたちで助けてくれた。
広島のイベンターにTさんというひとがいる。たしか、そのショーケースライブの打ち上げの時だったと思う。ライブをほめてくれて、スタッフさんのいないところで一言、ぽつりと僕に言ってくれた。「オレね。いきものはね、金の匂いがするんだ。」今から振り返っても、すごい台詞だ。
皆さんはこの言葉、どう受け取るだろうか。業界の人のひどい言葉と思うだろうか。でもそのとき僕は、心から嬉しかった。このひとはいくつものライブ現場を見てきたプロとして僕らに「可能性がある」と思ってくれた。そして言わなくていい、剥き出しの本音の表現で、それを伝えてくれた。
もっとキレイに言うことだって出来るのだ。でも、そんなきれいごとの嘘を言うのではなく、プロとして「お前らは成功すると思う!だからお前らとの仕事はいつかでかい仕事になる!俺はお前らと組みたい!」と本音で、まだ世の中のことをほとんど知らぬ、若造の僕に、伝えてくれたのだ。
実際、Tさんはデビュー当時から中国地方のライブイベントを何度も組み立ててくれて、誰よりも熱い情熱で僕らのライブを助けてくれた。客が入らなくても続けてくれた。「いつかアリーナでやるようになってくれねぇと、うち儲からないぞ!」と冗談で笑いながら、でもずっと応援してくれた。
今でこそ、アリーナツアーなんてことができるようになったが、本当にデビュー当時は、なかなかライブにお客さんを集めることができなかった。Tさんだけじゃなく、全国各地で、いきもののライブを、ライブハウスのツアーから、ともにつくってくれたイベンターさんたちがたくさんいる。
みんな熱い情熱を持って、僕らに可能性を見出してくれた。その出会いに恵まれていった僕らは、端的に、幸せだったと思う。
ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。
『第12回 〜後編〜』はのちほど。
『第12回 〜後編〜』
まだ、まだ、まだ…デビューしていないっていう…笑。
相変わらず、アニメの主題歌の座は獲得することができなかった。オトナたちは焦っていたし、僕らも自分たちを見失っていたけれど、しかしその裏で、自分たちの自我というか、軸のようなものが、むくむくと、育っていたのだと思う。
「一度、好きにつくってみれば」と、いろんなことがうまくいかないので、もはや、なかばサジを投げるような感じで、スタッフから提案された。思ったように、やってみろよ。と。内心は、かきまわせるだけかきまわしておいて、今さら…なにくそ。と思っていた。まだ、子供だった。
自分たちの感覚に従って、自分たちにとって正しい曲をつくるほうが、必ずうまくいく。必ず、世に出れる。ということを、言葉だけではなく、かたちとして提示しなければいけなかった。「思ったようにやれ」と言われたほうが、責任は重い。でも結果を出すしかない。自信はあった。
わけのわからない嵐に飲み込まれて、ほとんどすべてを見失えるだけ見失っていたけれど、1週間ほど時間を与えられて、「ほんとはこんな曲、やりたかったよな」と、自分のなかに最後に残ったかけらのようなものを、ぼんやり思いながら、メロディを書いた。
それが「SAKURA」だった。
当時は、森山直太朗さんの「さくら」があったり、ケツメイシさんの「さくら」があったり、コブクロさんの「桜」が流れ始めていたり。とにかくいわゆる「桜ソングブーム」が、もう起きていた頃だった。でも、そんなことを気にする余裕が、そもそもなかった。
歌ってメロディをつくりながら「さぁくら〜♪」と出てきてしまったときは「ああ、桜ソングか。二番煎じと言われるかな。」と一瞬思ったが、でも今自分が書きたいものは、これなのだから、書けばいいか。世の中の動きなんてどうでもいい。と、思い切った。逃げるほうが、かっこわるいと。
あのとき、J−POPという言葉をつかって、自分たちを肯定的に語るグループはあまりいなかったと思う。そんなグループが「桜」という使い古された、でも、J-POPにとって最大のモチーフから、デビュー曲で逃げずに戦ったことは、今から振り返れば、正しかったな、とは思う。
ただ、身の程知らずだったとは、思う。
しばらくして、本当にデビュー曲が決まらない。タイアップもうまく決まらない。チーム内では様々な意見があったのだろうけれど、メロディが強いあの桜の曲を、タイアップがつかなくてもいいから、曲を信じて、デビュー曲として出してしまおう、となった。たしか、そんな流れだったと思う。
最初、のちに「SAKURA」となる曲には、ある程度の仮歌詞があった。デビュー曲にするのならば、その歌詞を、もっと洗練させたい。吉岡の歌を鍛え上げたディレクターと、今度は僕が1対1で向き合うことになった。
簡単に言うと、40回ほど、歌詞を書き直した。つらかった。
40回の歌詞の書き直しに、付き合うディレクターも凄い。たった数文字の表現について、2、3時間電話で話すことも何度もあった。お互い、熱がこもって、ほぼ喧嘩のように語気が強くなることもあった。
ある部分の修正をメールで送ったあと、留守電にディレクターからメッセージが入った。どうやらうまく書けたようで、ほめようと思ってくれたらしい。「いや、あの部分、感動したよ」と簡単なメッセージだったのだけど、その声がふるえている。
のちに「SAKURA」がリリースされたあと、ある作詞家の方がディレクターに「君の担当している彼らのあの歌詞。よかったよ」と褒めてくれたという。それを知らせようと電話してきてくれた時も、電話先で彼は泣いていた。もう自分だけの曲じゃない。一緒に戦っているような感じだった。
歌入れが迫る。何十回も書き直しているけれど、ゴールまで辿り着かない。このままでは歌入れに間に合わない。大阪でのイベントライブがあって現地に入ると、ディレクターがいた。大阪まで来てくれた。その日が初めての大阪ライブだったが、そのまま喫茶店に入り、本番まで歌詞の話し合い。
梅田の喫茶店だったと思う。少しおしゃれな。そのおしゃれな店の雰囲気にまったくそぐわない二人だった。一方は、書き直しの作業でげっそりした、顔色の悪いソングライター。もう一方は、鬼気迫る表情で歌詞を読み、なんとかいいものにしたいと充血した目を見開いているディレクター。
「うん。これでいいんじゃないかな。やっと書けたね…」ディレクターがぽつりと言った。「いやぁ…よくやったね…」そう言ってくれたけれど、なんだか意識がはっきりしていなくて、ああ、これで終わったのか…と。不思議な気持ちだったことを、覚えている。
メジャーデビュー。というやつが、迫っていた。季節は、もう少しで、春になる。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。
そして今日は長文でした、お付き合いありがとうございました。
次回は『第13回』。
いきものがたり まとめ 7 (第11回~12回前編) [いきものがたり]
2016年1月8日 第11回
『第11回』
新年初の更新。今年もよろしくお願いします。若き山下くん。今年は、山下くん推し。
僕らがデビューする頃は「メジャーデビュー」という言葉が、今よりもまだ、もう少し輝きをもっている時代だったと思う。僕らはメジャーレーベルから作品をリリースする、つまりはメジャーデビューを目指していた。
仕組みがややこしくて理解されにくいかもしれないけれど、事務所に入るだけではデビューとはならなくて、自分たちの作品をリリースするレーベルをみつけないといけない。わかりやすい表現でいうと「手をあげてくれるレコード会社」をみつけなけらばいけない。
キューブに入ってすぐの頃、事務所主催のショーケースライブに出ることになった。ショーケースライブというのは、ようは業界人向けのお披露目会のようなもの。スーツ姿の業界人が腕組みをして見ているところで、ライブをしなきゃいけない、なかなかにきつい環境でのライブだ。
渋谷O-EASTでそれは開かれた。ずっと神奈川でライブをしていたので、東京の、しかも800人規模という当時の自分たちからしたら大きすぎるO-EASTの舞台に立つことにはかなりの緊張があった。
大学生だった僕らから見ると、「ぎょーかいじん」は怖かった。今から考えると、各地のイベンターさんや、メディアのひとたちなど、デビュー後にお世話になるひとの多くに、ここで出会っていたのだと思う。そしてそこに、僕らに”手をあげる”レコード会社のスタッフも来ていた。
エピックレコードは、当時、新人をみつけて若い世代でのヒットを目指そうと模索していた頃だったそうだ。キューブとすれば、なんとかいきものがかりにも興味を持ってもらいたくて、当時の社長だったカズさんこと、小林和之社長にもこのライブの招待状を送っていた。
小林社長。カズさん。は豪快なひとだ。エピックの社長として僕らは本当に可愛がってもらった。僕らもカズさんが大好きで、吉岡は関西弁のカズさんの口ぶりをモノマネして、ラジオでよく披露していた。他社に移られた今でさえ現場で会うと「元気か!」と声をかけてくれる。素敵なひとだ。
しかし当日、そんな素敵なカズさんの姿は会場にはなかった。カズさん、すっかりライブを忘れていて、なんと合コ…いや、女性との有意義な会食に出かけていたのだ。直前に気付いたカズさんは「やばい!」と焦り、社内のナンバー2に、代わりにライブに行くよう頼んだ。(すべて本人談)
頼まれたナンバー2のこのひとが、僕らの人生を変えることになる。「しょうがねぇなぁ…」と代わりに会場を訪れると、他のレコード会社の人間を何人も会場のなかにみつけた。「ああ、あそこも…。あのレーベルも…。みんな付き合いで一応、顔は出しているんだな…」かすかに身構えた。
何組か登場した新人バンドのなかで、ひとつ心にひっかかったバンドがあった。いきものがかりという、変な名前のグループだ。披露された「ノスタルジア」という曲が気に入った。あたりを見回すと他社のスタッフの姿。「あ、他にもってかれるかな」そのひとは直感で思った。
すぐにキューブに連絡をとり、興味があることを伝えた。他社の人間がたくさんきていた。もしかしたら他のレーベルと取り合うことになるかもしれない。いや、でもうちは今、会社の新しい顔となる新人のヒットを狙いたい。とれる新人は、とっておきたい。ここは一応、手をあげておかねば…。
しかし、実のところ、手をあげたのは、そのひとだけだった。「え??うちだけ??」
かくして、そのままスムーズに話は進み(だって競合する他社がいなかったから)いきものがかりはエピックレコードジャパンと契約をすることになった。事務所の部屋に呼ばれ、北牧社長から「いいニュースがある。お前らがメジャーデビューを果たすレコード会社が決まった」そう告げられた。
その日のことは覚えている。社長から怒られたからだ。デビュー決定を告げられても、僕ら3人は、なぜか全く喜ばず、神妙な顔をして「はい」と言っただけだった。「お前ら、もっと喜べよ!」と、笑われた。
「ここからが本当のスタートだ、もう引き返せない」と思うことしかできなかったのが、本音だ。もちろん物事が前に進むことは嬉しかったけれど、まだなにも成功していないのに無邪気に喜べる要素がなかった。むしろ、3人とも、これからが怖かった。
少し日をおいて、エピックのスタッフとの面談も行われた。社長の代わりに行ったライブで、うっかり僕らに手をあげてしまったひと、一志さんとも、そのとき初めて会った。”いっし”さんと読む変わった苗字なのだけど、会うなり「どうも、初めましてイッシーです!」と握手を求めてきた。
「うわぁ、いきなりあだ名で自己紹介?!めっちゃ、ぎょーかいじんだ!!」と戸惑った。今から考えれば、「イッシー」とふざけて言ったわけではなく、普通に「一志です」と自己紹介しているだけだったのだけれど、こちらは全てが初めての経験で、警戒しまくっていた。
激励する気持ちがあったのだろう。「うちのレーベルには、かつてドリカムが育った時代があり、ジュディマリが育った時代があった。君たちには、その次を狙う存在となってほしい。」普通なら、感激と恐縮の極みの言葉だ。まだ世にも出ていない3人にこれ以上ない、励ましの言葉だろう。
だが、悲しいかな、その前の挨拶で一志さんを「ぎょーかいじん」だと決めつけている僕らは「なに調子のいいこと言ってんだ。ダメになったらクビにさせるくせにっ!!やいやいっ!だまされてたまるか!!」と思っていた。そのあと後ろ盾として、めちゃくちゃ一志さんにお世話になったのに。
そしてその面談には、現場で僕らと向き合うことになる初代ディレクターも来ていた。その日からだ。僕らにとって、本当に長く、厳しく、つらい、デビューまでの育成期間が始まったのは。もう2度と過ごしたくないが、あの時間がなければ今の自分たちはないと言える、特別な日々が始まった。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第12回』。
2016年1月17日
第12回 (前編)
『第12回 〜前編〜』
写真が、ない代わりに、デビュー前のあれこれについて、前編、中編、後編の3部に分けて、書きます。長くて、ごめんなさい。
2005年の春頃に「人生すごろくだべ。」という3枚目のインディーズアルバムの制作に入った。一応、インディーズとは銘打たれていたけれども、エピックレコードのスタッフも現場に入り、いつか訪れるメジャーデビューに向けて、前哨戦となるような作品だった。
初代ディレクターは僕らより10歳ほど年長で、当時は30代前半だったと思う。端的に、厳しいひとだった。そこらへんのアーティストより、アーティスト。という言い方でどこまで伝わるのかわからないけれど、なかば狂気じみた情熱を、音楽制作に対して持つひとだった。
まず、最初に彼と向き合ったのは、吉岡だ。文字通り、叩きのめされた。完膚なきまでに。
過酷なものだなと思う。「歌いたくない」という言葉を吐いてしまうほど厳しかった音大での日々。そこでやっと積み上げた歌のかたちを、吉岡はまた再び、初代ディレクターにぶっ壊された。そして、その「壊す」というディレクターのその時の判断は、圧倒的に正しかったと僕は思う。
音大のミュージカル科で学んだ、あくまで舞台上でのパフォーマンスを念頭においた歌唱が、必ずしもすべて、そのままポップスに適用できるわけではなかった。「ポップスにおけるリズム、発声、ピッチ、パフォーマンス、歌い姿…どれひとつ出来ていない。なにひとつだ!」吉岡は叱責された。
渋谷にレコード会社が持つ、小さなプリプロスタジオがある。社長の気まぐれで「カジノスタジオ」という名前をつけられたそのスタジオは、新人がカンヅメにされて、育成される場所でもあった。雑居ビルの地下で、なぜかとってもカビ臭い。そこに、よく朝までいた。
とにかく吉岡は、歌って、歌って、歌って…歌い倒した。ファルセットを多用する歌唱法を、徹底的に直された。歌声の低域をふくよかにするために、中低域を魅力とするシンガーのCDを聴いて、その歌唱を完全コピーして歌って、さらに自分の歌い方に戻していくということもやった。
ポップスのリズムやグルーブの感覚を体で覚えるためにも、とにかく歌った…。ときに罵声に近い厳しい言葉を浴びながら、嫌というほど歌いまくった。作業が長引いて朝4時、5時まで歌うことも、ザラだった。そのなかで自分のスタイルを少しずつ、本当に少しずつ、つかんでいった。
このディレクターとの過酷な対峙は、デビュー1年後あたりまで続く。のちに男子二人も、曲作りにおいて同様に鍛えられるのだけれど、精神的にも、体力的にもタフな時代だったと思う。
昼にスタジオに入って、翌朝までスタジオで過ごす。あのどうしようもない気持ちで迎える夜明けを、今でも忘れられない。男子二人はスタジオから大学に行くことも多かった。あまりにつらくて、吉岡が叫びながら、スタジオの待合室の床を、比喩ではなく本当にのたうちまわったこともあった。
恵比寿の某スタジオにはディレクターの言葉に納得できなくて、なかば半狂乱になって水野が壁を蹴り上げたあとが、おそらくまだそのまま残っている。スタジオのひとには申し訳ない。スタジオに何の罪もないが、あの頃を思い出してしまうので、それ以来、僕らはそのスタジオを使っていない。
そこまで向き合ってくれたディレクターも凄まじい人だったと、改めて思う。いきものがかりを世に出そうとするために、本当に全身全霊でことにあたってくれていた。しかし、その情熱は嵐のようなもので気を抜くと吹き飛ばされて自分たちを思ってもいない方向に向かわせるようなものだった。
10年前の話だけれど、当時、ソニーミュージック系列の新人は、アニメの主題歌に選ばれることで、世に出るかたちをつくることが多かった。デビューする前の僕らも、とにかくオトナたちからは「なんとか、アニメの主題歌の座を獲得するんだ!」と、もう嫌というほど言われた。
2005年は、まさにそのための曲作りをしていたようなものだったかもしれない。当時のスタッフの要求はとってもストレートで、主題歌を狙うアニメのカラーに合わせて、ばんばん曲に修正を求められた。
バラードでつくったはずの曲が、いつの間にかアレンジャーに発注され、ディストーションギターの轟音が響くハードロックのデモで返ってきたりする。歌詞はアニメの方向性に合わせ、一字一句、気持ちの悪いほど前向きなものを求められた。戸惑う余裕さえなかった。
神奈川の片田舎から出てきた、いくらのんびり屋の大学生たちでも、その嵐に飲み込まれたら「自分たちの音楽ってなんですか?」という青臭いことを考えないわけがなかった。遅かったのかもしれないけれど「自分たちのスタイル」に対する自我が、その頃、初めて生まれてきたのかもしれない。
オトナたちの思惑が、暴風となって吹き付けられる嵐のなかに立たされてはじめて、「いきものがかり」ってどんなグループですか?ということを、本当の意味で考えだしたのだと思う。あの頃、恐ろしい速度で僕らは自分たちを見失っていったが、その反面、恐ろしい速度で、強くなっていった。
結局、そんな表面的にサウンドや言葉を合わせていくことが、いい結果につながるわけもなく、当時の僕らはアニメの主題歌を決めることがなかなかできなかった。それは先方の作品と”むすびつく”ことではなく、”こびる”ことでしかなかったのだと思う。それがうまくいくわけがない。
のちに「ブルーバード」や「青春ライン」、最近では「熱情のスペクトラム」など。先方の作品の世界観と、表面的ではなくちゃんと結びつくことで、自分たちにとって大切な作品になったアニメの主題歌がいくつもある。この頃の自問自答を越えて、生まれていったつながりだ。
「タイアップが決まらないとデビューできない」と偉いひとにはハッキリ言われた。そんなクソみたいなこと!…と格好よくグレることも、もしかしたらできたのかもしれないけれど、それがそのとき自分たちが直面していた、冷たく、温度のない、純然たる現実以外の何ものでもない、壁だった。
ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。
『第12回 〜中編〜』はのちほど。
いきものがたり まとめ 6 (第9回〜10回) [いきものがたり]
『第9回』
今日の1枚。
町田駅での路上ライブ。当時、一番頻繁にライブをしていた場所かもしれない。
ちょっと話は飛んで。この頃、路上ライブを、不思議な男性客がひとり、頻繁に訪れていた。毎週、姿をあらわす。しかし話しかけてはこない。というか、いつも30mくらい距離を置いて、駅前の柱のあたりで、ずっとこっちを見ていないフリをしながら、聴いている。
今日の1枚。写真は山下さんからの提供です。左奥に若きダッチーの姿も。
事務所に入ってからまず行ったのはインディーズアルバム「七色こんにゃく」の制作だった。当時、ともに制作してくれたアレンジャーさんの自宅が横浜にあり、そこに通ってデモをつくっていった。
レコーディングスタジオというものに生まれて初めて足を踏み入れたのも、このときだ。池尻にマルニスタジオというスタジオがある。そこが「七色こんにゃく」の制作場所だ。雑誌とかで見た大きなスピーカーと、卓と、なんだかわからない機材いっぱいと…。素直に目を丸くして驚いてた。
レコーディングには、デビュー初期のツアーをともにまわってもらったドラマーの原治武さんにも参加してもらった。ジブさんは、サンダースネークに出入りしていた先輩バンドのメンバーでもあって、自分たちからすれば兄貴のような存在だった。
事務所に入ったことで、ジブさんのようなプロミュージシャンと出会うことも多くなった。とくに当時、事務所の先輩だった音楽プロデューサーの鎌田雅人さんには、ライブでのサポートにはじまり、相談相手にもなってもらって、とてもお世話になった。
また、ベースの安達貴史くんと出会ったのもこの頃だ。専門学校を出たばかりで、先輩バンドのサポートをしていた彼を初めて見たのは、サンダースネークのステージだった。当時、彼は丸々太っていて、山下は「じゃがいもがベース弾いてるみたいだった」と冗談を言って笑う。
事務所のスタジオで初めて紹介された彼は、自分と同じ人見知りで、最初の頃はあまり話もしなかったように思う。ただ腕はピカイチで、同い年でも、やっぱりプロのプレーヤーになるひとはとんでもなく演奏が上手いんだなと、驚いたものだ。
やがて打ち解けて、天性のお調子者だと気づくのに時間はかからなかったが、とにかく音楽に対しては真面目で努力家だった。当時から山下と「俺らは売れるかわかんないけど、でもダッチーみたいなやつにだけは、いつか成功してほしいよな」とよく話していた。
10年経っても、安達くんと同じステージに立てていることは、いきものがかりの3人にとっては光栄なことだ。すっかり売れっ子になって、スケジュールをとるのが大変なのが、嬉しいやら腹立たしいやらだが笑。もっともっとすごいベーシストになってほしい。
FMヨコハマのコンテスト番組に音源を送ってみてはどうか。毎月、リスナーの投票でグランプリを決める番組があって、そこからデビューするきっかけを得るバンドも少なくないと言う。事務所のスタッフさんから言われヨコハマミュージックアワードという番組にエントリーすることになった。
FMヨコハマといえば、地元民には憧れのラジオ局だ。当時は、山下の車でどこへ行くにも3人で移動していたが、いつも車中で流しているのはFMヨコハマだった。正直、子どもの頃は、FMヨコハマは全国放送だと思っていた。神奈川県民にとっては、どメジャーな放送局なのだ。
当時、プライムカッツ(FMヨコハマでのパワープレイのこと)としてスキマスイッチさんの曲がよく流れていた。たしか「View」だったと思う。それが僕らは大好きで、はじめてスキマスイッチのお二人にお会いしたときは、ラジオで聞いていたひとが目の前に!と感慨深かったものだ。
エントリーした楽曲は「真夏のエレジー」。深夜番組だったが、生まれてはじめてラジオで自分たちの曲が流れることに胸が高鳴った。実家にあったラジオコンポの前で比喩ではなく本当に正座をして、放送を待った。「恋は終わった」歌の最初のフレーズが流れたときは、素直に感動した。
「真夏のエレジー」は、歌謡曲のエッセンスが入った切なげな恋の曲だった。曲が終わると番組のDJさんが一言「いやぁ、いいねぇ!この曲はずるい!」と短いコメントをしてくれた。作風にただよう古めかしさを、褒めてくれた意味での「ずるい!」だった。すごく、すごく、うれしかった。
しかしコンテストは2位に終わり、僕らはその月だけで、エントリーから去ることになった。残念だったが数ヶ月後、思いもよらない話が、自分たちのもとにくる。「来年の4月から、いきものがかりにレギュラー番組を持たせたい」そう、FMヨコハマのスタッフのひとが言っているという。
その話を伝えられたときは、3人とも、それはそれは喜んだ。たぶんデビューが決まったと言われたときよりも喜んだじゃないかと思う。自分たちが聴いていた放送局に、自分たちの番組ができる。夢物語だったものが、少しずつかたちになっていくのを感じた瞬間だった。
当時、僕らを引き上げてくれたのがFMヨコハマの加藤ディレクターだった。深夜枠とはいえ、地元の海老名厚木でさえ、まだそれほどの知名度はなかった僕らを使うのは、抜擢という言葉以上のものだったと思う。デビューが決まる、ずっと前のことだ。
実際、番組をはじめてみると、当然だが、ただの素人の大学生だ、まったくうまくしゃべれない。それを加藤ディレクターは、いちから丁寧に根気強くアドバイスをしてくれ、マイクの前で話すということについて何もわかっていない僕らに、優しく教えてくれた。
デビューすると、 CDのプロモーションで各ラジオ局の番組に、宣伝のための2分から3分のコメントを送らせてもらう機会がたくさんある。デビュー当時はCDを出すたびに数十本のラジオコメントを録り、全国へ送った。1本3分でも、数が多いので、録音するだけで何時間もかかる。
この3分のコメントがなかなか簡単なようで難しい。自分たちの曲を送った先の放送局で流してもらうわけで、もちろんいい加減にやるわけにはいかない。しかし、そのコメント録りもF横で加藤さんに教えてもらったことが大いに役立ち、下手くそながらも、なんとかこなしていくことができた。
本職の芸人さんや、アナウンサーさんのように、見事にしゃべることは今でも求められるわけではないが(またそれは違うレベル)、人前で話すときの最低限の順序立てや、3人でのしゃべり分けを、FMヨコハマの番組で教わったんだと思う。
少し先の話になるが、デビューすると1、2年目は嵐のような忙しさだった。地方に行くことも頻繁だった。自分たちを冷静に客観視することなんて、なかなかできない状況だった。でも、そんななかで毎週FMヨコハマのレギュラー番組の放送時間だけは、必ず地元の神奈川のスタジオにいた。
なにがあっても、どんなに忙しくても、毎週必ず、地元のこのFMヨコハマへと生放送で帰ってくる。その時間が当時の僕らにとっては、気持ちをちょっとだけでも切り替えられる大事な時間だった。まさにホームといえる場所だったと思う。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第11回』。
年末年始のメンバーの様子をリーダーのツイッターから拝借させていただきます。
紅白、CDTVの後 3人揃って初詣に行ったそうですよ
いよいよデビュー10周年イヤーが幕を開けましたね♫
いきものがたり まとめ5 (第7〜8回 ) [いきものがたり]
『第7回』
今日の1枚。
インディーズファーストアルバムの、ブックレット。
初めてのワンマンライブは、ひとまず成功と言えるものだった。「花は桜 君は美し」で始まったこのライブでは、「ノスタルジア」や「地球」など、デビューした後にも演奏を続けた曲目が、すでに披露されていた。
映像に残っているので実家などに帰ると、たまに見返す。「ひどいな、こりゃ」と笑ってしまうところも多々あるけれど、初めての楽しさが3人とも表情に隠しきれないほど出ていて、それはそれでお客さんにも伝わったようで、ライブは好評だった。
ライブが終わると、ライブハウスの照明スタッフさんが自分たちのところまでやってきて「こんなに楽しそうにライブする子たちひさしぶりに見たよ。なんだかこっちも楽しくなっちゃったよ。」と笑ってくれたのが嬉しかった。
当時、別のバンドのマネージャーをしていて、そのライブハウスに出入りしていたその人は、ビジュアル系の強面バンドポスターが一面に貼られた壁に、笑顔のスナップ写真、変な名前の3人組のチラシを見つけ「なに、この子たち。おもしろそう!」と思ったそうだ。
実際ライブを見ると、ほとんどなにひとつ出来ていない。まさに素人。でも、曲と、歌と、3人の姿が、なんだかとっても面白い。ちゃんと育てれば、可能性がある、そう思ってくれたようだ。僕らはまだ気づいていなかったが、今に続く新しい出会いが、生まれ始めていた。
対バンというシステムすら知らず、いきなり「ワンマンライブをしたい」と言い放った若造に困惑したライブハウスの店長も、この頃にはすっかり応援してくれるようになっていた。何も知らない僕らに、店長は実に様々なことを1から教えてくれた。
そのなかで店長に勧められたのが、音源の制作だった。「1枚でいいから、ちゃんと音源をつくれ。デビューしたいって考えるなら、レコード会社のひとや、音楽事務所のひとに、まずは曲を聴いてもらわないと。そのために、音源がなきゃダメだぞ」
実に当たり前のことだが、その当たり前のことを、知らないのが当時の自分たちだった。店長の号令のもと、ライブハウスのスタッフさん総出で協力をしてくれ、音源をつくることになる。それがインディーズ1stアルバム「誠に僭越ながらファーストアルバムを拵えました。」だ。
レコーディングはライブハウスのホールをそのまま貸し切って行われた。メンバー以外の演奏者はみんな、ライブハウスのスタッフさん。ギターはPAさんだったし、ベースは照明さんだった。ドラムは同い年のブッキングスタッフさんで、キーボードは店長のバンド仲間。まさに手作りだった。
ライブハウスを借りられるのはたった1日。前日のライブが終わった夜からスタートしてほぼ48時間ぶっつづけで6曲をレコーディング。翌々日のライブが始まる直前まで。とてつもない強行スケジュール。でも、音源をつくれることが、嬉しくて、楽しい。ただ、それだけだった。
CDが出来上がるのは、今でも嬉しいものだ。ましてや初めてのときなど。ジャケットは、自分たちで写真を切り貼りして、コラージュのようにしてつくった。背表紙は当時の山下の、実家の部屋を写したものだ。歌詞カードは手書きだった。
工場でプレスされた初版の300枚が、段ボールに詰められてライブハウスに届いたときのことを覚えている。たしかその場に、ファーストワンマンでドラムを叩いてくれた友人がいて、彼が1枚目を買ってくれたはずだ。いきものがかりのCDを世界で初めて買ったひと、ということになる。
サンダースネーク厚木には現在も入口に、当時、水野が手書きでつくったCDのポスターが貼ってある。さすがに12年ほど日光にさらされているので、色はあせているが、その頃に貼ったままの状態にしてくれている。
収録曲は「花は桜 君は美し」「歌姫」「ノスタルジア」「秋桜」「夏・コイ」「地球」の6曲。前述の女性マネージャーから「厚木で、おもしろい子たちをみつけた」と言われ音源を渡されたキューブの北牧社長は、移動の車中でその音源を聴いたそうだ。
「ノスタルジア」を聴き、絶対この新人をうちでやりたい。そう思ってくれたらしい。すぐさま女性マネージャーに電話をしたが、あいにく留守電で「こんなに”新人をやりたい!”と思ったのは久しぶりだ!」とメッセージを入れた。たしか、社長から聴いたのはそんな話だったと思う。
ワンマンライブの成功も、1回だけでは意味がない。その後は、数ヶ月毎にワンマンライブを企画して、そのために毎週どこかの駅へ路上ライブに出て、必死でチラシを配る。そんな日々を1年ほど過ごした。「真夏のエレジー」や「くちづけ」などの曲も、この頃、出来上がっていった。
余談だが、芸人の狩野英孝さんが新百合ケ丘駅で路上ライブをされていたのもおそらくこの頃。新百合ケ丘では、いきものがかりはなぜか全くお客さんを集めることができなかった。
ただ、それが当時の狩野さんだったかどうかは、わからない…。真実は闇の中…。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第8回』。
今日の1枚。
路上ライブでの3人。二十歳すぎ。
厚木のライブハウスで、僕らを”発見”(?)した初代マネージャーは、しかし、すぐさま自分たちに声をかけてくるわけではなかった。ライブハウスの店長には興味があることを伝えていたようだったが、僕らがそのことを知るのは、もう少しあとのことだ。
なので、1年ほど環境は変わらず、自分たちだけで活動をする期間が続いた。小田急線沿線を中心に、路上ライブで名前を売りながら、数ヶ月に1回、サンダースネークでバンドスタイルのワンマンライブを行う。
本厚木、海老名、相模大野、町田、新百合ケ丘、小田急多摩センター、藤沢、小田原、横浜、桜木町。路上ライブをした記憶がある駅は、上記の通り。この他にもあったかもしれないが、いま思い出せるのは、このくらい。
高校時代以上に、頻繁に路上ライブをするようになっていた。3万円くらいの小さなアンプスピーカーと、4トラックくらいだったろうか、これまた安いミキサーをお金を出しあって買った。ギターと少ない機材を山下の車のトランクに積め込んで、3人で各駅をまわった。
スピーカーを使って、マイクで吉岡の声を届ける。とても当たり前のことのようだけど、これが水野、山下の曲作りには少なからずの影響を与えた。高校時代は、マイクを使わず、いわゆる”生声”で路上ライブをしていた。そこには難点があった。
雑踏のなかでの”生声”は、そう簡単にひとに届くものでもない。たとえばバラードを歌ったとき、高い音域の音は、声を張って歌うことができるので道行くひとにも聞こえるが、Aメロなどの部分での低い音域の音は、かき消されてしまう。路上ライブにおいて「聞こえない」ことは、致命的だ。
だから吉岡が”生声”で歌っていた頃は、水野と山下はなるべく彼女が声を張って歌えるよう、高い音域のなかだけで歌をつくることに四苦八苦していた。それがマイクを使えるようになった途端、低い音域でも道行くひとの耳に届くようになった。これは、二人にとっては大きなことだった。
なんせ競技場が広くなったようなもので。いままで内野しか使えなかったのに、外野まで使って自由にメロディを作っていいよ、と言われたようなものだ。二人は喜んで曲をつくった。山下とは「あれは、俺らにとって革命だったな、あはは」と冗談半分で話すことがある。
「使える音域に制限がある環境」「歌うのが自分じゃなくて他人(しかも異性)」「曲作りの競争相手が目の前にいる」というような、なかば職業作家的な条件で、曲作りを覚えていったのは、よく言えば、自分たちを成長させるためには良かったのかもなと、いま、つくづく思う。
路上ライブミュージシャン独特の、「場の空気をつかむ」感覚がついていったのもこの頃だ。別にグループ名にかけたシャレではないが、もはや「動物的」とも言える感覚が当時の僕らにはあった。演奏をしている目の前の、空気を読んで、ライブをする力だ。
当時、路上ライブはまったく曲順などを決めずに臨んでいた。ライブ中に、その場で話し合う。だが、ある時期から僕らは、ライブ中にも曲順の相談をしなくなった。嘘のような本当の話なのだけど、目の前の客を見れば、次やるべき曲がなにかわかるのだ。話さなくても。
たとえば10人のお客さんが目の前にいるとして、それが全員女子高生なのか、家族連れなのか、会社帰りのサラリーマンなのか、バラバラなのか、それでその場に生まれる空気は全然ちがう。客層だけじゃない、客の立ち位置でも、距離でもちがう。それによって適する曲は変わってくる。
30mくらい先で、ひとを待って携帯を見るフリをしながら実はライブを聞いているひと。というのを見分ける力もあった。数十mも先に立っているひとに、吉岡が突然ピントポイントでチラシを渡しに行って「え、なんで聞いてるってわかったんですか」と驚かれることもあった。
だいたい目の前がどんな雰囲気で、いま自分たちの持ち曲の、どの歌がこの場に適しているか。3人の感覚はあの当時は本当にシンクロしていて、軽く目配せをし「ああ、次はこの曲だな」とちょっとうなづき合うだけで、ライブを進行していた。
だからライブハウスでの対バンイベントにたまに呼ばれるようになった頃は戸惑った。他の出演者のバンドが、客の空気をまったく読まないで「手をあげろよ!」「もっと前に来いよ!」と、強い煽りをする場面に出くわしたからだ
それじゃ、お客さんが聞き辛いだろうと僕らは思ったが「なんで、お前らは手拍子を煽らないんだ?」と逆に不思議がられることの方が多かったと思う。「客をもっと盛り上げなきゃ!」とはよく言われたが、肝心のお客さんは、それを求めている空気ではない。うまく理解できなくて戸惑った。
路上ライブとライブハウスの文化は全然ちがう。路上ライブは場を”読む”文化。ライブハウスは場を”つくる”文化。乱暴にまとめればそんな風に思えた。どちらが正しいというわけでもない。その文化の違いに最初は戸惑ったが、その両方を知ることができたのは、良い経験だった。
事務所に入ったのちも、大学在学中はずっと路上ライブを行っていた。しかしピークの動物的とも言える路上の空気を読む力は、不思議と消えていった。バンドスタイルのかたちでライブハウスで演奏することが、多くなっていったせいかもしれない。自分たちのライブ感覚が変化していったのだ。
ライブハウスでの動員は少しずつ増えていったが、路上ライブではひとが集まらなくなっていく。すごく不思議な感覚だった。デビュー直前の冬、横浜駅で路上ライブをした。デビュー曲となる「SAKURA」を演奏していたが、立ち止まったくれたお客さんは、なんと女子高生たったひとりだ。
やっと立ち止まってくれた女子高生ひとりに、必死で「SAKURA」を聴かせようと歌っていたら、よろよろと酔っ払いのおじさんが歩いてきて、その場にストンと倒れた。コツンと地面に頭を打った。近くのひとが救急車を呼んだ。もうそうなるとライブは続けられない。それで終わり。
実は、これがいきものがかり最後の路上ライブの顛末だ。その日から、本当の意味での路上ライブは一度も行っていない。
路上ライブというスタイルが背負う条件というものがあって、それが自分たちが音楽を届けるときのスタンスをかたちづくっていった。「客を選ばない」「客がそっぽを向いているところからスタート」僕らがポップをより強く志向していった理由は、路上の経験を抜きにして考えられないと思う。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第9回』。
秋旅 ~大阪から金沢へ~ 3 [徒然]
カウンターの中で、板長さんと思われる方が
ひとつひとつの桶を手際よく盛ってらっしゃいました。
ブリ
イカ
甘エビ
タコ
どの魚も旨い!
こちら 「 金時草(きんじそう) 」 のお浸し
そんな不思議な食感なのですが、これはおかわりするほど
気に入りました。
若い板さんに聞いたところ 焼きがおススメということで
お願いしました。
冬がやはりもっとも脂の乗りが良いそうなのです。
つまり煮つけは「冬」が季節。
この秋の時期は焼きが正解なのだそうですよ。
って感じですよね。。。
めっちゃ後悔してます。。。
超大満足☆
なんか雰囲気ちょっと好みじゃなかったので
一杯ひっかけて即出たんですけど、、、
二度と来るまいと心に誓い退散。。。
ポイント高いお店に滑り込みました。
「 ウイスキーのロック 丸氷 」
ようやく良いバーに落ち着けました。
おでんの 「〇〇〇」
回転すしの 「 もりもり寿司 」
大当たりでした!
近江町市場あたりの海鮮丼はどう??
と、聞いたんです。
寿司の方がはるかに多くの人の手間、仕事が入る。
生ガキとかウニを市場で去年食べたから
やっぱり食べて帰りたい~~ と、ボクは嘆きました。。。
観光客向けに勝手にやってる輩がいるんだよ、、まったく 」
他は休みでも、あの辺だけはやってるから。。。 」
バーをにこやかに後にします
もう少しバブルがしぼんでるといいな~~~
秋旅 ~大阪から金沢へ~ 2 [徒然]
かな~~~り、間が空いてしまいました。。。(^^ゞ
その他は良い印象をあまり受けませんでした。。
この朝食会場のカフェレストランも
音楽がうるさい。。。もう閉口しました。。
もう、このホテルには来ないでしょうね。。
前回は記事にも書きました。
金沢へ来たようなものなのですが、、笑
とりあえず21世紀美術館へとやってきました。
本多の森ホールではなく、何故ここなのか。。?
「歌劇座」ってネーミングが先ずそそります。
本多の森ホールへは、21世紀美術館から徒歩で向かったのですが、
この県美術館~赤レンガ付近も散歩してみて下され♪
「いきものがたり」まとめ 4 (第5〜6回) [いきものがたり]
2015年11月24日 第5回
『第5回』
今日の1枚。
サンダースネイク厚木、
2003年6月のライブスケジュールが書かれたチラシ。
初めてのライブを行う、いきものがかりの名前がある
やっと活動を始めることを決心してくれた吉岡。物事の歯車は、それまでのことが嘘だったみたいに、くるくると動き出した。水野と山下は、浪人時代に学習室の休憩スペースで語り合っていた”計画”を、少しずつ実行に移していく。
まず最初にしたのは高校時代のバンド仲間に声をかけること。「自分たちのバックバンドをしてくれないか」”サポートミュージシャン”という言葉をまだ知らなかった。まだライブハウスで一度もライブをしたことがないのに、いきなりバックバンド。そんな無茶なことを考えたのには理由がある。
水野と山下で決意していたことがあった。この道に挑むのなら「路上ライブのスタイルを、捨てよう」そう二人で決めていた。
もうその頃には、ゆずのお二人は確固たる地位を築いていて、そのあとに出てきた路上出身グループも、実力のあるひとたちを残して淘汰されはじめていた。そもそも地力のない自分たちが、ゆずさんと同じようなスタイルで、世に出られる気がしなかった。
路上ライブのアコースティック編成を押し出すかたちでは自分たちは世に出られない。J-POPや歌謡曲が好きで、本来は様々なタイプの曲をつくりたいのに出自である路上スタイルに固執したら、それが十分にできない。当のゆずのお二人でさえ、多様なサウンドスタイルにもう踏み込んでいた。
ゆずという大きな存在が登った山を、後から登ろうとしても勝てるわけがない。自分たちの山を、自分たちの手でみつけなければ…。演奏は素人同然、つまるところ男子二人がつくる曲と吉岡の歌しか武器はないのだから、それを最大限に生かせるスタイルをみつけなければ。そう思っていた。
どんな曲でも可能になるバンドスタイルになれないか。でも自分たちが3人であることは崩したくない。どうしようとなって、そこで恥ずかしさを知らない奇想天外なアイディア「バックバンドをつけよう」という言葉が出てきた。素人考えの勢いで、ただ突き進んでいるだけだったと思う。
高校時代のバンド友達に声をかけると、快く引き受けてくれて、すぐにドラム、ベース、キーボードのメンバーが集まる。ついでに高校時代、エレキを多少は弾いたことがあるからという理由で、自分が”アコギ”から”エレキ”に転向することになった。もう、恥ずかしいくらい、ざっくりしてた。
そのとき集まってくれた友人たちはそれから約1年、ほぼボランティアで活動を助けてくれた。練習スタジオの料金を割り勘で払ってくれたりまでした。3人きりだった僕らに、まず最初に手を差し伸べてくれたのは彼らだ。彼らがいなくては何も始まっていない。本当にすべてが、始まっていない。
ちょうどその頃、地元に新しく出来たライブハウスがあった。駅前でチラシをもらったとかでその存在を知った吉岡が、事前に電話で問い合わせてみたら、対応がすごく丁寧でよかったと言う。では、そこを訪ねてみようとなって、山下とそのライブハウスを訪れた。
サンダースネーク厚木。名前のいかめしさそのままに、そこはバリバリのハードロックスタイルのライブハウスだった。受付の壁一面に、無数のビジュアル系のバンドポスター。店員さんはみんな長髪。店内で初めて会話した店長だという男性は、金髪でシルバーアクセサリーをしていた。
「あのぉ〜すみません。ライブしたいんですけれどぉ〜」「おぉ、ライブ。いいねぇ。君たち、学生さん?お友達のバンドとかはいるかな?」「あぁ〜いません」「だと仲間のバンドをみつけるか、うちのブッキングの審査を…」「あぁ〜僕たちだけでライブしたいんです」「ん?え?」
一応、説明しよう。通常、インディーズのバンドというのは集客が少ないところから出発するのが当たり前で、自分たちの客だけではライブが成り立たない。だから仲間のバンドを呼んで自前でイベントを主催するか、ライブハウスのブッキングでチケットノルマを果たしつつイベントに出るか。
ようは「対バン」と呼ばれるかたちで、ライブをこなしていくのが、最初のスタートラインなのだ。逆に、自分たちだけで成立させるライブのことを「ワンマンライブ」という。活動したてのバンドが、まずひとつの目標にするのが、この「ワンマンライブ」の実現だ。
だから当然、ライブハウスの店長は、突然やってきたどうみても素人同然のあどけなさ残るこの学生たちが「自分たちだけでライブやりたいんです(=ワンマンライブやりたいんです)」と言い放ったことに、目がテンになってしまったのだ。
ただ、店長は優しかった。ものを知らぬ学生なのだろうと、瞬時に察してくれたんだろう。「き、き、君たち、対バンってシステムは知ってるかな?」「知らないっす」嘘だと思うかもしれないが本当の話である。僕らは、大人の対応をしてくれた優しい店長にそう言った。だって知らなかったから。
「き、き、君たち、ライブハウスでライブしたこと、あるかな?」「いや、ないです。はじめてです」「そ、そ、そうだよね」「路上ライブならしたことあります」「路上?…あぁ、駅前とかでやるやつかな?」「そうです」「う、うん。路上とライブハウスは違うからなぁ…あはは…」
「あ…いや。もう一度聞くけど、えっと、君たちだけでライブをやるってこと??」「あ、はい」「そ、それは難しいんじゃないかなぁ、あはは。まずは対バンで他のバンドと…」「え、だって、ミスチルだって、ドリカムだって、ひとつのバンドでライブやってるじゃないですか?」
信じるか信じないかは、あなた次第…。ではない。本当に僕らはこのセリフを吐いたのである。知らないとは恐ろしい。知らないことの強さはすさまじい。若すぎて、バカすぎた。世の中のバンドマンの誰もが呆れかえるこんなセリフを吐いた幼き僕らに、キレなかった店長は優しすぎる。
バカだった。が、しかしバカなりの自信が、なぜか僕らにはあった。「う、うちのハコは、キャパ300人だよ…?300人もお客さん集められないでしょ?」「いや、大丈夫だと思います」その数ヶ月後、優しい金髪の店長は、この恐ろしく世間知らずの若者たちの、奇跡を見ることになる。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第6回』。
この日いきものがかりはRADWIMPSがホストの対バンライブに出演しました。
第6回 2015年12月3日
今日の1枚。
2003年、初めてのワンマンライブのチラシ。
ライブハウスで一度もライブをしたことがないのに、いきなりワンマンライブをする。サンダースネーク厚木の店長もびっくりドン引きの無謀チャレンジ。がしかし、本人たちには、その自信に根拠がないわけじゃなかった。
高校時代の路上ライブを応援してくれていたお客さんたちが、まだ自分たちのことを気にかけてくれていた。「また、いきものやらないの?」と、何度もいろんなひとが声をかけてくれて、そのひとたちが、戻ってきてくれるんじゃないかという気持ちがあった。
それに当時は学生で、友人たちにも声をかけるつもりだった。「対バン」というシステムさえ知らなかった当時の僕らに「友達にはチケットは売らない」というような、バンドマンの清廉なプライドのようなものがまだあるわけもなく、来てくれるなら友達でも、家族でも、みんな来て欲しかった。
4月には、路上ライブを再開。路上ライブでチラシを配り、そこで心をつかんだお客さんたちに、ライブハウスに足を運んでもらう。簡易的なホームページをつくり、ライブで配布する歌詞入りのパンフレットもつくった。細かい作業ばかりだったけれども、素直に楽しんでいた。
実は、活動休止をしているあいだも、水野と山下はそれぞれに曲だけはつくっていた。音大で壁にぶつかって「歌いたくない」と言っていた吉岡が、いつやる気になってもいいように、ワンマンライブができるだけの楽曲を用意してあったのだ。
のちにシングル曲となった「花は桜 君は美し」や「ノスタルジア」も、その頃につくった楽曲だ。格好をつけてうんと良く言えば、自分たちの音楽の骨格のようなものを、知らず知らずのうちに、この頃につくっていたと言えるのかもしれない。
たまっていたオリジナル曲を、ライブでサポートメンバーをしてくれる高校時代の友人たちと、練習スタジオで合わせていく。楽曲のアレンジなんてしたことがない。手探りもいいところで、もうとにかく手当たり次第、思いついたことをみんなでやってみる。それがすごく楽しかった。
お金もなかったのでサンダースネークに併設されている練習スタジオを深夜割引で借りて、朝までよく練習した。楽しかったけれど、負担も大きかったと思う。本当に根気強く、練習に付き合ってくれたサポートメンバーの友人たちには感謝しかない。彼らは当時、就職活動もしていたというのに。
あるとき、活動をするうえで少し理不尽なことがあった。今から考えれば小さなことだったかもしれない。でも、まだ僕らも覚悟が足りない頃で戸惑っていた。そんなとき、ベースを弾いてくれた友人のK君が、スタジオの近所のラーメン屋で、笑顔で僕らに言ってくれた。
「まぁさ、"正しいことをするには偉くなれ"ってワクさんも言ってたじゃん?」当時、大ヒットしていた映画の「踊る!大捜査線」で、いかりや長介さん演じるベテラン刑事が呟いた名台詞だ。「俺らさ、いきものはきっと大きなところにいけると思うんだ。がんばってよ。」
映画のセリフを持ってきて冗談のようにかけてくれた言葉だったけれど、それから今まで、なにかどうしようもない理不尽にぶつかったときは、3人の合言葉として、K君が笑顔で言った「正しいことをするには、偉くなれ」を思い出した、必ず、苦笑いしながらでも、3人で言い合った。
自分たちの活動にとって”正しいこと”は、その時代ごとに違うのかもしれない。変わっていったことも、もちろんあるだろう。だけど逃げずにやってこれたと、今、少なくとも心のどこかで思えているのは、その言葉のおかげのような気もしている。
2003年6月2日。サンダースネーク厚木の楽屋に、いきものがかりの3人と、その3人を助けようと、世の中でいちばん初めに手を差し伸べてくれたサポートメンバーたちが、ライブの始まりを待っていた。
サンダースネークはハードロックスタイルのライブハウスだ。他のライブハウスにはない大きな売りがある。なんとステージ上に緞帳代わりの電動シャッターがあり、ステージがガレージのようになっているのだ。ライブが始まるとシャッターが音を立てて上に開き、その奥から出演者が登場する。
客席からは、なかなかに壮観な光景になるのだけれど、演奏する側からすると、ステージ上に待機しているときは、目の前が無機質なシャッターで、その向こうにいるお客さんの様子を伺い見ることが出来ない。とてもドキドキするのだ。ましてや、はじめてのワンマンライブだ。
1曲目に選んだのは「花は桜 君は美し」。頭サビ。今では自分たちの定番のスタイルだ。もう6月で、すこし季節はずれな曲だったのかもしれない。遅すぎる春だった。僕らにとっては、ほんとうに、待ち遠しい、春だった。
目の前の電動シャッターが動き出す。ついに幕が開く。「花は桜 君は美し」のイントロを弾き始めた。少し手が震えた。吉岡が歌い出す。頭サビを歌いきったときシャッターが開いた先に300人の顔があった。笑っていた。
一生忘れられない光景だ。
僕らの人生が、始まった瞬間だった。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第7回』。