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いきものがたり まとめ 7 (第11回~12回前編) [いきものがたり]


2016年1月8日  第11回 
 
 
 
 

 『第11回』

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新年初の更新。今年もよろしくお願いします。若き山下くん。今年は、山下くん推し。

 

僕らがデビューする頃は「メジャーデビュー」という言葉が、今よりもまだ、もう少し輝きをもっている時代だったと思う。僕らはメジャーレーベルから作品をリリースする、つまりはメジャーデビューを目指していた。

仕組みがややこしくて理解されにくいかもしれないけれど、事務所に入るだけではデビューとはならなくて、自分たちの作品をリリースするレーベルをみつけないといけない。わかりやすい表現でいうと「手をあげてくれるレコード会社」をみつけなけらばいけない。

キューブに入ってすぐの頃、事務所主催のショーケースライブに出ることになった。ショーケースライブというのは、ようは業界人向けのお披露目会のようなもの。スーツ姿の業界人が腕組みをして見ているところで、ライブをしなきゃいけない、なかなかにきつい環境でのライブだ。

渋谷O-EASTでそれは開かれた。ずっと神奈川でライブをしていたので、東京の、しかも800人規模という当時の自分たちからしたら大きすぎるO-EASTの舞台に立つことにはかなりの緊張があった。

大学生だった僕らから見ると、「ぎょーかいじん」は怖かった。今から考えると、各地のイベンターさんや、メディアのひとたちなど、デビュー後にお世話になるひとの多くに、ここで出会っていたのだと思う。そしてそこに、僕らに”手をあげる”レコード会社のスタッフも来ていた。

エピックレコードは、当時、新人をみつけて若い世代でのヒットを目指そうと模索していた頃だったそうだ。キューブとすれば、なんとかいきものがかりにも興味を持ってもらいたくて、当時の社長だったカズさんこと、小林和之社長にもこのライブの招待状を送っていた。

小林社長。カズさん。は豪快なひとだ。エピックの社長として僕らは本当に可愛がってもらった。僕らもカズさんが大好きで、吉岡は関西弁のカズさんの口ぶりをモノマネして、ラジオでよく披露していた。他社に移られた今でさえ現場で会うと「元気か!」と声をかけてくれる。素敵なひとだ。

しかし当日、そんな素敵なカズさんの姿は会場にはなかった。カズさん、すっかりライブを忘れていて、なんと合コ…いや、女性との有意義な会食に出かけていたのだ。直前に気付いたカズさんは「やばい!」と焦り、社内のナンバー2に、代わりにライブに行くよう頼んだ。(すべて本人談)

頼まれたナンバー2のこのひとが、僕らの人生を変えることになる。「しょうがねぇなぁ…」と代わりに会場を訪れると、他のレコード会社の人間を何人も会場のなかにみつけた。「ああ、あそこも…。あのレーベルも…。みんな付き合いで一応、顔は出しているんだな…」かすかに身構えた。

何組か登場した新人バンドのなかで、ひとつ心にひっかかったバンドがあった。いきものがかりという、変な名前のグループだ。披露された「ノスタルジア」という曲が気に入った。あたりを見回すと他社のスタッフの姿。「あ、他にもってかれるかな」そのひとは直感で思った。

すぐにキューブに連絡をとり、興味があることを伝えた。他社の人間がたくさんきていた。もしかしたら他のレーベルと取り合うことになるかもしれない。いや、でもうちは今、会社の新しい顔となる新人のヒットを狙いたい。とれる新人は、とっておきたい。ここは一応、手をあげておかねば…。

しかし、実のところ、手をあげたのは、そのひとだけだった。「え??うちだけ??」

かくして、そのままスムーズに話は進み(だって競合する他社がいなかったから)いきものがかりはエピックレコードジャパンと契約をすることになった。事務所の部屋に呼ばれ、北牧社長から「いいニュースがある。お前らがメジャーデビューを果たすレコード会社が決まった」そう告げられた。

その日のことは覚えている。社長から怒られたからだ。デビュー決定を告げられても、僕ら3人は、なぜか全く喜ばず、神妙な顔をして「はい」と言っただけだった。「お前ら、もっと喜べよ!」と、笑われた。

「ここからが本当のスタートだ、もう引き返せない」と思うことしかできなかったのが、本音だ。もちろん物事が前に進むことは嬉しかったけれど、まだなにも成功していないのに無邪気に喜べる要素がなかった。むしろ、3人とも、これからが怖かった。

少し日をおいて、エピックのスタッフとの面談も行われた。社長の代わりに行ったライブで、うっかり僕らに手をあげてしまったひと、一志さんとも、そのとき初めて会った。”いっし”さんと読む変わった苗字なのだけど、会うなり「どうも、初めましてイッシーです!」と握手を求めてきた。

「うわぁ、いきなりあだ名で自己紹介?!めっちゃ、ぎょーかいじんだ!!」と戸惑った。今から考えれば、「イッシー」とふざけて言ったわけではなく、普通に「一志です」と自己紹介しているだけだったのだけれど、こちらは全てが初めての経験で、警戒しまくっていた。

激励する気持ちがあったのだろう。「うちのレーベルには、かつてドリカムが育った時代があり、ジュディマリが育った時代があった。君たちには、その次を狙う存在となってほしい。」普通なら、感激と恐縮の極みの言葉だ。まだ世にも出ていない3人にこれ以上ない、励ましの言葉だろう。

だが、悲しいかな、その前の挨拶で一志さんを「ぎょーかいじん」だと決めつけている僕らは「なに調子のいいこと言ってんだ。ダメになったらクビにさせるくせにっ!!やいやいっ!だまされてたまるか!!」と思っていた。そのあと後ろ盾として、めちゃくちゃ一志さんにお世話になったのに。

そしてその面談には、現場で僕らと向き合うことになる初代ディレクターも来ていた。その日からだ。僕らにとって、本当に長く、厳しく、つらい、デビューまでの育成期間が始まったのは。もう2度と過ごしたくないが、あの時間がなければ今の自分たちはないと言える、特別な日々が始まった。

 

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第12回』。

 

 

2016年1月17日

 

第12回 (前編)

 

『第12回 〜前編〜』


写真が、ない代わりに、デビュー前のあれこれについて、前編、中編、後編の3部に分けて、書きます。長くて、ごめんなさい。

 

2005年の春頃に「人生すごろくだべ。」という3枚目のインディーズアルバムの制作に入った。一応、インディーズとは銘打たれていたけれども、エピックレコードのスタッフも現場に入り、いつか訪れるメジャーデビューに向けて、前哨戦となるような作品だった。

初代ディレクターは僕らより10歳ほど年長で、当時は30代前半だったと思う。端的に、厳しいひとだった。そこらへんのアーティストより、アーティスト。という言い方でどこまで伝わるのかわからないけれど、なかば狂気じみた情熱を、音楽制作に対して持つひとだった。

まず、最初に彼と向き合ったのは、吉岡だ。文字通り、叩きのめされた。完膚なきまでに。

過酷なものだなと思う。「歌いたくない」という言葉を吐いてしまうほど厳しかった音大での日々。そこでやっと積み上げた歌のかたちを、吉岡はまた再び、初代ディレクターにぶっ壊された。そして、その「壊す」というディレクターのその時の判断は、圧倒的に正しかったと僕は思う。

音大のミュージカル科で学んだ、あくまで舞台上でのパフォーマンスを念頭においた歌唱が、必ずしもすべて、そのままポップスに適用できるわけではなかった。「ポップスにおけるリズム、発声、ピッチ、パフォーマンス、歌い姿…どれひとつ出来ていない。なにひとつだ!」吉岡は叱責された。

渋谷にレコード会社が持つ、小さなプリプロスタジオがある。社長の気まぐれで「カジノスタジオ」という名前をつけられたそのスタジオは、新人がカンヅメにされて、育成される場所でもあった。雑居ビルの地下で、なぜかとってもカビ臭い。そこに、よく朝までいた。

とにかく吉岡は、歌って、歌って、歌って…歌い倒した。ファルセットを多用する歌唱法を、徹底的に直された。歌声の低域をふくよかにするために、中低域を魅力とするシンガーのCDを聴いて、その歌唱を完全コピーして歌って、さらに自分の歌い方に戻していくということもやった。

ポップスのリズムやグルーブの感覚を体で覚えるためにも、とにかく歌った…。ときに罵声に近い厳しい言葉を浴びながら、嫌というほど歌いまくった。作業が長引いて朝4時、5時まで歌うことも、ザラだった。そのなかで自分のスタイルを少しずつ、本当に少しずつ、つかんでいった。

このディレクターとの過酷な対峙は、デビュー1年後あたりまで続く。のちに男子二人も、曲作りにおいて同様に鍛えられるのだけれど、精神的にも、体力的にもタフな時代だったと思う。

昼にスタジオに入って、翌朝までスタジオで過ごす。あのどうしようもない気持ちで迎える夜明けを、今でも忘れられない。男子二人はスタジオから大学に行くことも多かった。あまりにつらくて、吉岡が叫びながら、スタジオの待合室の床を、比喩ではなく本当にのたうちまわったこともあった。

恵比寿の某スタジオにはディレクターの言葉に納得できなくて、なかば半狂乱になって水野が壁を蹴り上げたあとが、おそらくまだそのまま残っている。スタジオのひとには申し訳ない。スタジオに何の罪もないが、あの頃を思い出してしまうので、それ以来、僕らはそのスタジオを使っていない。

そこまで向き合ってくれたディレクターも凄まじい人だったと、改めて思う。いきものがかりを世に出そうとするために、本当に全身全霊でことにあたってくれていた。しかし、その情熱は嵐のようなもので気を抜くと吹き飛ばされて自分たちを思ってもいない方向に向かわせるようなものだった。

10年前の話だけれど、当時、ソニーミュージック系列の新人は、アニメの主題歌に選ばれることで、世に出るかたちをつくることが多かった。デビューする前の僕らも、とにかくオトナたちからは「なんとか、アニメの主題歌の座を獲得するんだ!」と、もう嫌というほど言われた。

2005年は、まさにそのための曲作りをしていたようなものだったかもしれない。当時のスタッフの要求はとってもストレートで、主題歌を狙うアニメのカラーに合わせて、ばんばん曲に修正を求められた。

バラードでつくったはずの曲が、いつの間にかアレンジャーに発注され、ディストーションギターの轟音が響くハードロックのデモで返ってきたりする。歌詞はアニメの方向性に合わせ、一字一句、気持ちの悪いほど前向きなものを求められた。戸惑う余裕さえなかった。

神奈川の片田舎から出てきた、いくらのんびり屋の大学生たちでも、その嵐に飲み込まれたら「自分たちの音楽ってなんですか?」という青臭いことを考えないわけがなかった。遅かったのかもしれないけれど「自分たちのスタイル」に対する自我が、その頃、初めて生まれてきたのかもしれない。

オトナたちの思惑が、暴風となって吹き付けられる嵐のなかに立たされてはじめて、「いきものがかり」ってどんなグループですか?ということを、本当の意味で考えだしたのだと思う。あの頃、恐ろしい速度で僕らは自分たちを見失っていったが、その反面、恐ろしい速度で、強くなっていった。

結局、そんな表面的にサウンドや言葉を合わせていくことが、いい結果につながるわけもなく、当時の僕らはアニメの主題歌を決めることがなかなかできなかった。それは先方の作品と”むすびつく”ことではなく、”こびる”ことでしかなかったのだと思う。それがうまくいくわけがない。

のちに「ブルーバード」や「青春ライン」、最近では「熱情のスペクトラム」など。先方の作品の世界観と、表面的ではなくちゃんと結びつくことで、自分たちにとって大切な作品になったアニメの主題歌がいくつもある。この頃の自問自答を越えて、生まれていったつながりだ。

「タイアップが決まらないとデビューできない」と偉いひとにはハッキリ言われた。そんなクソみたいなこと!…と格好よくグレることも、もしかしたらできたのかもしれないけれど、それがそのとき自分たちが直面していた、冷たく、温度のない、純然たる現実以外の何ものでもない、壁だった。

 

ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。

『第12回 〜中編〜』はのちほど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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