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いきものがたり まとめ 6 (第9回〜10回) [いきものがたり]


2015年12月18日

第9回

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『第9回』

今日の1枚。
町田駅での路上ライブ。当時、一番頻繁にライブをしていた場所かもしれない。

サンダースネークで初ワンマンを行った頃には、もう3人のなかでは、音楽の道に進むことに迷いがなくなっていた。このいきものがかりというグループで、なにかを成そうという決意のようなものが、少しずつ3人のなかで固まっていった時期だった 

目標として「10年」という言葉が出ていた。ちょうどそのとき、水野と山下は20歳。出ては消えてが繰り返される音楽の世界で、30歳になるまでの10年間、音楽活動を続けられたら、それはひとつの成功と言えるんじゃないだろうか。まずは10年を目標にしよう。そう3人で話していた。 

そんななかで、キューブという事務所が自分たちに興味を持っているという。先輩バンドのマネージャーだった女性が、その事務所のスタッフだと聞く。音楽業界について無知に等しかった僕らに、ライブハウスの店長は、盛んにこれはチャンスだ!と伝えてくる。 

何もわからない僕らにはそれくらいしかできなかったのだが、キューブがどんな事務所なのか、ネットで検索して調べた。テレビで見たことのある役者さんが多くいる。「騙されているわけじゃなさそう…」笑ってしまうが、高校時代に受けた怪しいオーディションのことがまだ頭をよぎっていた。

聞けば音源も気に入ってくれ、ライブも見に来てくれているという。ライブハウスですれちがう程度に顔を会わせることはあっても、ゆっくり話すことはなかったその女性マネージャーと、初めて面と向かって話をすることになった。 

あれはたしか都内のファミレスだったと思う。甲州街道沿い…いや明治通り沿いだったろうか。話した内容はほとんど覚えていない。ほめてくれていたような気がする。こう言うとまた怒られるが、優しいお母さんみたいなひとだった。もし入ることになったらこの人がマネージャーになるらしい。

初代マネージャーには「よっちゃん、ちゃんとご飯食べた?」と、いつも親のような心配をしてもらった記憶しかない。デビュー前で学生だった僕らに音楽のことも、音楽以外のことも、全てを優しく教えてくれたひとだった。というか、とにかく、よくファミレスでご飯を食べさせてもらった笑。 

そんなキャラクターだったけれども、仕事人として、すごいひとだった。ライブスタッフにしても、地方のイベンターにしても、初期のいきものがかりがお世話になったひとの多くは、その初代マネージャーの言葉で集まってきてくれたひとたちだった。 

実はそのひとは80年代後半から90年代前半にかけて一時代を築いたビックバンドを育てたひとでもあった。「イチヤン(そのひとのあだ名)が面白いっていう子たちなら、喜んで仕事するよ」と、いろんなひとが彼女のつくった信頼のもとで集まってくれ、力を貸してくれたのだ。

今でも会うと、ズバッと核心をついた助言をくれたりする。初めて日本武道館でライブをしたときも、まわりのひとみんなが賛辞をくれるなか、そのひとは「うーん、なんか物足りなかった」と決して褒めてくれなかった。それは、誰にもらう言葉より、励みになる叱咤だった。優しいひとだ。 

04年の初冬。ワンマンライブを、そのキューブという事務所の社長が見に来てくれるという。ライブハウスの店長はまるで自分のことのように息巻いていた。「人生かかってるぞ!がんばれ!!」と。僕ら自身は、ちょっと戸惑っているような感じだった。 

いよいよ、キューブに入るということになる。都内にある事務所に呼ばれ、そこで初めて社長と会うことになった。ライブに来てくれた社長とは、ライブ会場では挨拶ができなかったので、その面談が、初対面となった。

ちょっと話は飛んで。この頃、路上ライブを、不思議な男性客がひとり、頻繁に訪れていた。毎週、姿をあらわす。しかし話しかけてはこない。というか、いつも30mくらい距離を置いて、駅前の柱のあたりで、ずっとこっちを見ていないフリをしながら、聴いている。

スーツ姿ではなく私服だ。平日の夜、毎週さまざまな駅に来れる?普通の会社員で、それが可能だろうか。ただ、仕事をしていない自由人のようには思えない。比較的、身綺麗な紳士だ。音楽業界のひと?いや、でも一向に話しかけてこない。なんだ、このひと。3人のなかで、疑問になっていた。

いたずら好きの吉岡が、あるときチラシを持って、猛然とダッシュした。数十m先にいたその人にチラシを渡しにいったのだ。おそらく彼は気づかれていないと思ったのだろう。借金取りに見つかったような顔でいきなり向かってくる吉岡に本当にびっくりしていた。やっぱり聴いてたんじゃん。

話は戻って、初めての社長面談。会議室に通されて待っていると、少し恰幅のいい、大柄な男性がスタッフ何人かを連れて入ってきた。自分が感じた第一印象は「うわ。絵に描いたような社長顔だ。すっげぇ社長っぽい顔してるな、このひと。」だ。(ごめんなさい、北牧社長。)

しかし、3人が驚いたのは、社長のとなりにいた男性だった。それは毎週、柱のかげから僕らをあやしく見つめていた、あの男性だった。なんだ、そういうことか。そのひとの正体は、社長に言われて路上ライブを偵察にきていたスタッフだった。

自分たちが気付いていなかっただけで、キューブは1年間のあいだ、僕らの活動をいろいろなかたちで見ていてくれていた。そのうえで、拾ってくれたようだった。社長は、初めて僕らと面談したときのことをよく覚えているそうだ。

「なんで僕らをとってくれるんですか?僕らのどこが良くて契約してくれるんですか?」まったく本人は覚えていないのだが、そんな言葉を僕らは開口一番、社長に投げたらしい。ただ生意気なだけだったのだと思う。「そんなことをいきなり聞いてくる奴が初めてで、面白かった」と社長は笑う。

その日からいままで、まさにキューブに育てられていった。事務所愛をここで披露してもしょうがないが、よくもただの素人学生だった僕らを、なにもないところから拾ってくれたものだと、今も感謝している




 今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第10回』。
 
 
 
 
 
 
2015年12月25日 

第10回


『第10回』


今日の1枚。写真は山下さんからの提供です。左奥に若きダッチーの姿も。

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事務所に入ってからまず行ったのはインディーズアルバム「七色こんにゃく」の制作だった。当時、ともに制作してくれたアレンジャーさんの自宅が横浜にあり、そこに通ってデモをつくっていった。

レコーディングスタジオというものに生まれて初めて足を踏み入れたのも、このときだ。池尻にマルニスタジオというスタジオがある。そこが「七色こんにゃく」の制作場所だ。雑誌とかで見た大きなスピーカーと、卓と、なんだかわからない機材いっぱいと…。素直に目を丸くして驚いてた。

レコーディングには、デビュー初期のツアーをともにまわってもらったドラマーの原治武さんにも参加してもらった。ジブさんは、サンダースネークに出入りしていた先輩バンドのメンバーでもあって、自分たちからすれば兄貴のような存在だった。

事務所に入ったことで、ジブさんのようなプロミュージシャンと出会うことも多くなった。とくに当時、事務所の先輩だった音楽プロデューサーの鎌田雅人さんには、ライブでのサポートにはじまり、相談相手にもなってもらって、とてもお世話になった。

また、ベースの安達貴史くんと出会ったのもこの頃だ。専門学校を出たばかりで、先輩バンドのサポートをしていた彼を初めて見たのは、サンダースネークのステージだった。当時、彼は丸々太っていて、山下は「じゃがいもがベース弾いてるみたいだった」と冗談を言って笑う。

事務所のスタジオで初めて紹介された彼は、自分と同じ人見知りで、最初の頃はあまり話もしなかったように思う。ただ腕はピカイチで、同い年でも、やっぱりプロのプレーヤーになるひとはとんでもなく演奏が上手いんだなと、驚いたものだ。

やがて打ち解けて、天性のお調子者だと気づくのに時間はかからなかったが、とにかく音楽に対しては真面目で努力家だった。当時から山下と「俺らは売れるかわかんないけど、でもダッチーみたいなやつにだけは、いつか成功してほしいよな」とよく話していた。

10年経っても、安達くんと同じステージに立てていることは、いきものがかりの3人にとっては光栄なことだ。すっかり売れっ子になって、スケジュールをとるのが大変なのが、嬉しいやら腹立たしいやらだが笑。もっともっとすごいベーシストになってほしい。

FMヨコハマのコンテスト番組に音源を送ってみてはどうか。毎月、リスナーの投票でグランプリを決める番組があって、そこからデビューするきっかけを得るバンドも少なくないと言う。事務所のスタッフさんから言われヨコハマミュージックアワードという番組にエントリーすることになった。

FMヨコハマといえば、地元民には憧れのラジオ局だ。当時は、山下の車でどこへ行くにも3人で移動していたが、いつも車中で流しているのはFMヨコハマだった。正直、子どもの頃は、FMヨコハマは全国放送だと思っていた。神奈川県民にとっては、どメジャーな放送局なのだ。

当時、プライムカッツ(FMヨコハマでのパワープレイのこと)としてスキマスイッチさんの曲がよく流れていた。たしか「View」だったと思う。それが僕らは大好きで、はじめてスキマスイッチのお二人にお会いしたときは、ラジオで聞いていたひとが目の前に!と感慨深かったものだ。 

エントリーした楽曲は「真夏のエレジー」。深夜番組だったが、生まれてはじめてラジオで自分たちの曲が流れることに胸が高鳴った。実家にあったラジオコンポの前で比喩ではなく本当に正座をして、放送を待った。「恋は終わった」歌の最初のフレーズが流れたときは、素直に感動した。

「真夏のエレジー」は、歌謡曲のエッセンスが入った切なげな恋の曲だった。曲が終わると番組のDJさんが一言「いやぁ、いいねぇ!この曲はずるい!」と短いコメントをしてくれた。作風にただよう古めかしさを、褒めてくれた意味での「ずるい!」だった。すごく、すごく、うれしかった。

しかしコンテストは2位に終わり、僕らはその月だけで、エントリーから去ることになった。残念だったが数ヶ月後、思いもよらない話が、自分たちのもとにくる。「来年の4月から、いきものがかりにレギュラー番組を持たせたい」そう、FMヨコハマのスタッフのひとが言っているという。

その話を伝えられたときは、3人とも、それはそれは喜んだ。たぶんデビューが決まったと言われたときよりも喜んだじゃないかと思う。自分たちが聴いていた放送局に、自分たちの番組ができる。夢物語だったものが、少しずつかたちになっていくのを感じた瞬間だった。

当時、僕らを引き上げてくれたのがFMヨコハマの加藤ディレクターだった。深夜枠とはいえ、地元の海老名厚木でさえ、まだそれほどの知名度はなかった僕らを使うのは、抜擢という言葉以上のものだったと思う。デビューが決まる、ずっと前のことだ。

実際、番組をはじめてみると、当然だが、ただの素人の大学生だ、まったくうまくしゃべれない。それを加藤ディレクターは、いちから丁寧に根気強くアドバイスをしてくれ、マイクの前で話すということについて何もわかっていない僕らに、優しく教えてくれた。

デビューすると、 CDのプロモーションで各ラジオ局の番組に、宣伝のための2分から3分のコメントを送らせてもらう機会がたくさんある。デビュー当時はCDを出すたびに数十本のラジオコメントを録り、全国へ送った。1本3分でも、数が多いので、録音するだけで何時間もかかる。

この3分のコメントがなかなか簡単なようで難しい。自分たちの曲を送った先の放送局で流してもらうわけで、もちろんいい加減にやるわけにはいかない。しかし、そのコメント録りもF横で加藤さんに教えてもらったことが大いに役立ち、下手くそながらも、なんとかこなしていくことができた。

本職の芸人さんや、アナウンサーさんのように、見事にしゃべることは今でも求められるわけではないが(またそれは違うレベル)、人前で話すときの最低限の順序立てや、3人でのしゃべり分けを、FMヨコハマの番組で教わったんだと思う。

少し先の話になるが、デビューすると1、2年目は嵐のような忙しさだった。地方に行くことも頻繁だった。自分たちを冷静に客観視することなんて、なかなかできない状況だった。でも、そんななかで毎週FMヨコハマのレギュラー番組の放送時間だけは、必ず地元の神奈川のスタジオにいた。

なにがあっても、どんなに忙しくても、毎週必ず、地元のこのFMヨコハマへと生放送で帰ってくる。その時間が当時の僕らにとっては、気持ちをちょっとだけでも切り替えられる大事な時間だった。まさにホームといえる場所だったと思う。

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第11回』。

 

 

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年末年始のメンバーの様子をリーダーのツイッターから拝借させていただきます。 

紅白、CDTVの後 3人揃って初詣に行ったそうですよ

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いよいよデビュー10周年イヤーが幕を開けましたね♫

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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