「 いきものがたり 」 まとめ 1 (ー1回〜0回) [いきものがたり]
第 -1回 2015年10月26日
2016年3月15日の、デビュー10周年にむけて。
連続ツイート企画
【いきものがたり】
不定期更新です。
『第 −1 回』
今日の1枚。
二人時代のいきものがかり。
始まりは、27年前。神奈川県海老名市。小学校1年生。山下と出会う。「ほたか」という名前が「ほたる」と聞こえて、変わった名前だなと思ったことが初対面の記憶。クラスメートだったが、幼なじみと呼べるほど仲が良かったわけではない。
1年1組だった。大きなマンションが近所に出来て、夏休みが明けるのを機に、100人ほどの転入生が入ってくることに。あまりの転入生の多さに、入学早々だったがクラス替えをすることになった。そのため、山下とクラスメートだったのは1学期のあいだのわずか数ヶ月間だけだ。
そのわずかな期間に二人で任されたクラスの係りが”いきものがかり”。廊下に小さな水槽があり、金魚にエサを与える。普通は飼育がかりと呼ぶのだろうが、小学校1年生に「飼育」という言葉は難しいと思ったのだろう、担任の先生が”いきものがかり”と名付けた。
はからずも”名付け親”となってしまった担任の先生は、ずいぶん後になってからテレビに出ている”いきものがかり”というグループのメンバーが、自分の知る「みずのくん」と「やましたくん」であると、人に知らされて、気づいたそうだ。ライブ会場に花を贈ってくれた。
そのときは二人ともおおいに驚き、後日、連絡をとってライブに招待した。今でもよくライブを見に来てくれる。クラスの係りの名前をつけることが、まさか教え子の人生を変えるなんて思いもしていなかっただろう。でも、先生にはいい名前をつけてもらったと思う。
小学校時代の山下との思い出はほとんど無い。遊び仲間のグループも違った。山下が遊んでいたグループは、公園に秘密基地をつくってやんちゃをするような子供たち。自分が遊んでいたグループは、部屋にこもってみんなで漫画雑誌をつくるような子供たち。対照的だった。
中学に入ると山下とはさらに疎遠になる。実は中学校1年生のとき、同じクラスだったらしいのだが、その事実を大人になって卒業アルバムを確認するまで二人ともすっかり忘れていた。お互いを意識することなどなかったのだと思う。
高校受験が迫り、自分は県内の高校ではなく、少し遠方の私立高校を受験する気でいた。中学での人間関係にうまく適応できなかった当時の自分は、どうにか地元から離れた、誰も知るひとのいない高校へ行きたいと考えていた。
だが、人生とはおもしろおかしく転がるもので、受験した私立の高校は全てが不合格となる。あの当時はずいぶんと落胆をしたものだけれど、受かって別の高校に通っていたら、山下と親しくなることもなかっただろうし、吉岡に至っては出会うことさえなかった。縁だな、と思う。
高校に入ると疎遠だった山下と親しくなる。部活動が盛んだった母校。そこからあぶれた”帰宅部”の二人。実家も近いので、帰り道をともにすることが多くなった。いきものがかりを結成してからは独特の距離感を保つようになったけれど、この時期はまだ、お互いを「友達」と呼べる時期だった。
山下にいつから「よしき」と呼ばれるようになったかを覚えていない。気づけば自分も山下のことを「ほたか」と呼ぶようになっていた。他人から下の名前で呼ばれることも、他人を下の名前で呼ぶことも、自分の人生では、彼が初めてだったと思う。
やることはなかった。暇を持て余していた。そんなとき「ゆず」というグループが音楽シーンに登場した。地元のテレビ局で流れたミュージックビデオに感化された山下が「路上ライブをしたい」ともちかけてきた。いつもの帰り道での、何気ない会話。人生は動いていたのだと思う。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第0回』。
第0回 2015年10月31日
『第0回』
今日の1枚。
ビナウォークができる前の海老名駅前で。
16年前。99年2月1日。いちいち日にちを覚えているのは、なぜか律儀に活動日記をつけていたからだ。近くの公民館に無料で借りられる音楽室があり、試しに二人で練習をすることに。だが、いざ行くと公民館は休館日。仕方なく駐車場で歌った。その日を一応の結成日としている。
外で歌った経験などもちろんなかったので、駐車場での練習は想像以上に気持ちが良かった。その心地よさだけが、強く印象にある。まだ自分は一度も聴いたことがないが、山下はその日の録音テープを持っているという。
グループ名は高校生になるまでそれほど親しくなかった自分たちの唯一の共通点を、山下が思い出してきたことから。「小1のときに生き物係だったんだよ。うちら」「あ、そうだったっけ?」「それ、とりあえずのグループ名にしよう」「おう、いいよ」とりあえずのつもりがもう16年経った。
小田急線の相模大野駅で、初めて路上ライブに立つ。99年4月13日。恥ずかしさと緊張で、まだ誰も見てやしないのに、ギターケースを開くのにも1時間ほどかかった。地元の海老名や厚木ではない、少し離れた相模大野の駅を選んだのも、もし友達に見られたら恥ずかしい、という理由だった。
初めて立ち止まってくれたお客さんは、20歳だという若い女性。「君たち、ナミエ歌える?」安室奈美恵さんの曲をリクエストされた。歌えなかった。
当時は空前の”ゆずブーム”。ゆずを真似して路上で歌う男の子たちに、ゆずファンである女の子たちが足を止め、キャッキャと青春を楽しんでいる光景が、日本全国そこらじゅうで見られた。水野、山下のふたりも、そんな光景のなかにいた。
約10年後になるが横浜スタジアムで行われた音野祭というライブで、ゆずのお二人と共演を果たす。駅前でよくカバーしていたのが「ねこじゃらし」だと伝えると一緒に演奏してくれた。嬉しかった。お二人と共演したことでそれまでの憧れや夢に区切りをつける機会にもなった。大切な瞬間だった
ふたりで路上に立っていた頃。水野がメインを歌い、山下がコーラスとハーモニカを担当するという役割分担。ほとんどがカバー曲だったが、「赤いかさ」「地球」「からくり」などの楽曲は当時からあった。吉岡が加入する前から、それらは演奏していたと思う。
他のバンドを並行してやっていたこともあって、曲をつくりだしたのは自分の方が早い。それを見て「良樹ができるのなら、俺もできるだろう」と山下も曲を作ってくる。1曲目はあまり良くなくて、それを伝えたら2曲目に持ってきたのが「地球」だった。すごく良かったので、驚いたし、焦った。
曲をつくり始めた頃から、自分と競争をし合うようなライバルが目の前にいたことは、お互いにとって本当に幸運だったと思う。その競争は「地球」を聴いたときから始まり、今、この瞬間も続いている。
半年ほど経ち、女性ボーカルを入れようという話になった。少しづつ客を集められるようになったが、男性二人組だと女子高生しか足を止めてくれない。街には自分達と同じ、ゆずを真似しただけの男性二人組のユニットが溢れていた。真似をしているだけではつまらないと、少し、感じ始めていた
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第1回』。
リーダー、翌11月1日のツイート
水野「Twitterで、今までを振り返るみたいなのやってるんだよ」
吉岡「へぇ。どっから振り返ってるの?」
水野「小学校1年生から」
吉岡「ふりかえりすぎだよ。」
水野「やっと次回、吉岡さんが登場だよ」
吉岡「あら。どうも。」
次回まとめ2は第1回より
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