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いきものがたり まとめ5 (第7〜8回 ) [いきものがたり]



2015年12月9日

『第7回』

今日の1枚。
インディーズファーストアルバムの、ブックレット。


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初めてのワンマンライブは、ひとまず成功と言えるものだった。「花は桜 君は美し」で始まったこのライブでは、「ノスタルジア」や「地球」など、デビューした後にも演奏を続けた曲目が、すでに披露されていた。

一応、セットリストのようなものがあったような記憶もあるが、ライブの流れなんてことを当時の自分たちが考えられるわけもなく、吉岡が舞台上で「あれ?次の曲なんだっけ?」と客に話しかけたりするような、そんな、よく言えば無邪気なライブだったと思う。

映像に残っているので実家などに帰ると、たまに見返す。「ひどいな、こりゃ」と笑ってしまうところも多々あるけれど、初めての楽しさが3人とも表情に隠しきれないほど出ていて、それはそれでお客さんにも伝わったようで、ライブは好評だった。

ライブが終わると、ライブハウスの照明スタッフさんが自分たちのところまでやってきて「こんなに楽しそうにライブする子たちひさしぶりに見たよ。なんだかこっちも楽しくなっちゃったよ。」と笑ってくれたのが嬉しかった。

実はこのとき、のちに、いきものがかりの初代マネージャーとなる女性が、ライブを見に来ていた。僕らにとっては、自分たちを世の中に引き上げてくれた母親のような存在だ。(お母さんと言うと、いつも怒られるが笑)

当時、別のバンドのマネージャーをしていて、そのライブハウスに出入りしていたその人は、ビジュアル系の強面バンドポスターが一面に貼られた壁に、笑顔のスナップ写真、変な名前の3人組のチラシを見つけ「なに、この子たち。おもしろそう!」と思ったそうだ。

実際ライブを見ると、ほとんどなにひとつ出来ていない。まさに素人。でも、曲と、歌と、3人の姿が、なんだかとっても面白い。ちゃんと育てれば、可能性がある、そう思ってくれたようだ。僕らはまだ気づいていなかったが、今に続く新しい出会いが、生まれ始めていた。

対バンというシステムすら知らず、いきなり「ワンマンライブをしたい」と言い放った若造に困惑したライブハウスの店長も、この頃にはすっかり応援してくれるようになっていた。何も知らない僕らに、店長は実に様々なことを1から教えてくれた。

そのなかで店長に勧められたのが、音源の制作だった。「1枚でいいから、ちゃんと音源をつくれ。デビューしたいって考えるなら、レコード会社のひとや、音楽事務所のひとに、まずは曲を聴いてもらわないと。そのために、音源がなきゃダメだぞ」

実に当たり前のことだが、その当たり前のことを、知らないのが当時の自分たちだった。店長の号令のもと、ライブハウスのスタッフさん総出で協力をしてくれ、音源をつくることになる。それがインディーズ1stアルバム「誠に僭越ながらファーストアルバムを拵えました。」だ。

レコーディングはライブハウスのホールをそのまま貸し切って行われた。メンバー以外の演奏者はみんな、ライブハウスのスタッフさん。ギターはPAさんだったし、ベースは照明さんだった。ドラムは同い年のブッキングスタッフさんで、キーボードは店長のバンド仲間。まさに手作りだった。

ライブハウスを借りられるのはたった1日。前日のライブが終わった夜からスタートしてほぼ48時間ぶっつづけで6曲をレコーディング。翌々日のライブが始まる直前まで。とてつもない強行スケジュール。でも、音源をつくれることが、嬉しくて、楽しい。ただ、それだけだった。

ライブハウスの近くにコンビニがあった。田舎なのでコンビニなのに自家製惣菜コーナーがある。弁当の余りの米を使ったんだろう、ライスボールというおにぎりみたいな商品があって、たしか1個数十円だった。それをレコーディング中、大量に買って、とにかくみんなで食ってた。

CDが出来上がるのは、今でも嬉しいものだ。ましてや初めてのときなど。ジャケットは、自分たちで写真を切り貼りして、コラージュのようにしてつくった。背表紙は当時の山下の、実家の部屋を写したものだ。歌詞カードは手書きだった。

工場でプレスされた初版の300枚が、段ボールに詰められてライブハウスに届いたときのことを覚えている。たしかその場に、ファーストワンマンでドラムを叩いてくれた友人がいて、彼が1枚目を買ってくれたはずだ。いきものがかりのCDを世界で初めて買ったひと、ということになる。

地元には当時、タハラというCDショップチェーンがあった。高校生の頃は、いつも学校帰りにタハラに立ち寄ってCDを眺めていた。そんな自分たちが通っていた店にも、CDを置いてもらえることになり、ライブハウスの店長と出来上がったCDを持って、挨拶に行ったりした。

サンダースネーク厚木には現在も入口に、当時、水野が手書きでつくったCDのポスターが貼ってある。さすがに12年ほど日光にさらされているので、色はあせているが、その頃に貼ったままの状態にしてくれている。

収録曲は「花は桜 君は美し」「歌姫」「ノスタルジア」「秋桜」「夏・コイ」「地球」の6曲。前述の女性マネージャーから「厚木で、おもしろい子たちをみつけた」と言われ音源を渡されたキューブの北牧社長は、移動の車中でその音源を聴いたそうだ。

「ノスタルジア」を聴き、絶対この新人をうちでやりたい。そう思ってくれたらしい。すぐさま女性マネージャーに電話をしたが、あいにく留守電で「こんなに”新人をやりたい!”と思ったのは久しぶりだ!」とメッセージを入れた。たしか、社長から聴いたのはそんな話だったと思う。

ワンマンライブの成功も、1回だけでは意味がない。その後は、数ヶ月毎にワンマンライブを企画して、そのために毎週どこかの駅へ路上ライブに出て、必死でチラシを配る。そんな日々を1年ほど過ごした。「真夏のエレジー」や「くちづけ」などの曲も、この頃、出来上がっていった。

余談だが、芸人の狩野英孝さんが新百合ケ丘駅で路上ライブをされていたのもおそらくこの頃。新百合ケ丘では、いきものがかりはなぜか全くお客さんを集めることができなかった。

ある時、駅の入口付近で男の子二人組が大きな人だかりを作っていた。駅前にファーストフード店があるのだが、その前の広場だ。その光景を見た記憶は、たしかにメンバー3人ともにある。新百合ケ丘でこんな人数を集めるのか…。とすごく驚いたのを覚えている。

ただ、それが当時の狩野さんだったかどうかは、わからない…。真実は闇の中…。




今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第8回』。
 
 
 
 
 


第8回
 
2015年 12月 15日
 
 
 
 
『第8回』

今日の1枚。
路上ライブでの3人。二十歳すぎ。         
 
 
 
 
 
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厚木のライブハウスで、僕らを”発見”(?)した初代マネージャーは、しかし、すぐさま自分たちに声をかけてくるわけではなかった。ライブハウスの店長には興味があることを伝えていたようだったが、僕らがそのことを知るのは、もう少しあとのことだ。

なので、1年ほど環境は変わらず、自分たちだけで活動をする期間が続いた。小田急線沿線を中心に、路上ライブで名前を売りながら、数ヶ月に1回、サンダースネークでバンドスタイルのワンマンライブを行う。

本厚木、海老名、相模大野、町田、新百合ケ丘、小田急多摩センター、藤沢、小田原、横浜、桜木町。路上ライブをした記憶がある駅は、上記の通り。この他にもあったかもしれないが、いま思い出せるのは、このくらい。

高校時代以上に、頻繁に路上ライブをするようになっていた。3万円くらいの小さなアンプスピーカーと、4トラックくらいだったろうか、これまた安いミキサーをお金を出しあって買った。ギターと少ない機材を山下の車のトランクに積め込んで、3人で各駅をまわった。

スピーカーを使って、マイクで吉岡の声を届ける。とても当たり前のことのようだけど、これが水野、山下の曲作りには少なからずの影響を与えた。高校時代は、マイクを使わず、いわゆる”生声”で路上ライブをしていた。そこには難点があった。

雑踏のなかでの”生声”は、そう簡単にひとに届くものでもない。たとえばバラードを歌ったとき、高い音域の音は、声を張って歌うことができるので道行くひとにも聞こえるが、Aメロなどの部分での低い音域の音は、かき消されてしまう。路上ライブにおいて「聞こえない」ことは、致命的だ。

だから吉岡が”生声”で歌っていた頃は、水野と山下はなるべく彼女が声を張って歌えるよう、高い音域のなかだけで歌をつくることに四苦八苦していた。それがマイクを使えるようになった途端、低い音域でも道行くひとの耳に届くようになった。これは、二人にとっては大きなことだった。

なんせ競技場が広くなったようなもので。いままで内野しか使えなかったのに、外野まで使って自由にメロディを作っていいよ、と言われたようなものだ。二人は喜んで曲をつくった。山下とは「あれは、俺らにとって革命だったな、あはは」と冗談半分で話すことがある。

「使える音域に制限がある環境」「歌うのが自分じゃなくて他人(しかも異性)」「曲作りの競争相手が目の前にいる」というような、なかば職業作家的な条件で、曲作りを覚えていったのは、よく言えば、自分たちを成長させるためには良かったのかもなと、いま、つくづく思う。

路上ライブミュージシャン独特の、「場の空気をつかむ」感覚がついていったのもこの頃だ。別にグループ名にかけたシャレではないが、もはや「動物的」とも言える感覚が当時の僕らにはあった。演奏をしている目の前の、空気を読んで、ライブをする力だ。

当時、路上ライブはまったく曲順などを決めずに臨んでいた。ライブ中に、その場で話し合う。だが、ある時期から僕らは、ライブ中にも曲順の相談をしなくなった。嘘のような本当の話なのだけど、目の前の客を見れば、次やるべき曲がなにかわかるのだ。話さなくても。

たとえば10人のお客さんが目の前にいるとして、それが全員女子高生なのか、家族連れなのか、会社帰りのサラリーマンなのか、バラバラなのか、それでその場に生まれる空気は全然ちがう。客層だけじゃない、客の立ち位置でも、距離でもちがう。それによって適する曲は変わってくる。

30mくらい先で、ひとを待って携帯を見るフリをしながら実はライブを聞いているひと。というのを見分ける力もあった。数十mも先に立っているひとに、吉岡が突然ピントポイントでチラシを渡しに行って「え、なんで聞いてるってわかったんですか」と驚かれることもあった。

だいたい目の前がどんな雰囲気で、いま自分たちの持ち曲の、どの歌がこの場に適しているか。3人の感覚はあの当時は本当にシンクロしていて、軽く目配せをし「ああ、次はこの曲だな」とちょっとうなづき合うだけで、ライブを進行していた。

だからライブハウスでの対バンイベントにたまに呼ばれるようになった頃は戸惑った。他の出演者のバンドが、客の空気をまったく読まないで「手をあげろよ!」「もっと前に来いよ!」と、強い煽りをする場面に出くわしたからだ

それじゃ、お客さんが聞き辛いだろうと僕らは思ったが「なんで、お前らは手拍子を煽らないんだ?」と逆に不思議がられることの方が多かったと思う。「客をもっと盛り上げなきゃ!」とはよく言われたが、肝心のお客さんは、それを求めている空気ではない。うまく理解できなくて戸惑った。

路上ライブとライブハウスの文化は全然ちがう。路上ライブは場を”読む”文化。ライブハウスは場を”つくる”文化。乱暴にまとめればそんな風に思えた。どちらが正しいというわけでもない。その文化の違いに最初は戸惑ったが、その両方を知ることができたのは、良い経験だった。

事務所に入ったのちも、大学在学中はずっと路上ライブを行っていた。しかしピークの動物的とも言える路上の空気を読む力は、不思議と消えていった。バンドスタイルのかたちでライブハウスで演奏することが、多くなっていったせいかもしれない。自分たちのライブ感覚が変化していったのだ。

ライブハウスでの動員は少しずつ増えていったが、路上ライブではひとが集まらなくなっていく。すごく不思議な感覚だった。デビュー直前の冬、横浜駅で路上ライブをした。デビュー曲となる「SAKURA」を演奏していたが、立ち止まったくれたお客さんは、なんと女子高生たったひとりだ。

やっと立ち止まってくれた女子高生ひとりに、必死で「SAKURA」を聴かせようと歌っていたら、よろよろと酔っ払いのおじさんが歩いてきて、その場にストンと倒れた。コツンと地面に頭を打った。近くのひとが救急車を呼んだ。もうそうなるとライブは続けられない。それで終わり。

実は、これがいきものがかり最後の路上ライブの顛末だ。その日から、本当の意味での路上ライブは一度も行っていない。

路上ライブというスタイルが背負う条件というものがあって、それが自分たちが音楽を届けるときのスタンスをかたちづくっていった。「客を選ばない」「客がそっぽを向いているところからスタート」僕らがポップをより強く志向していった理由は、路上の経験を抜きにして考えられないと思う。

 

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第9回』。

 

 

 

 

 

 



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