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いきものがたり まとめ 13 (第18回) [いきものがたり]


2016年3月6日  

第18回

 

 

 『第18回 -前編-』

  たいばん。

(443) ファンキーモンキーベイビーズの他にも、デビュー初期は多くのバンドやシンガーソングライターとの出会いがあった。中規模のライブハウスで、イベントに出させてもらうことが多く、実に様々なタイプの対バンを経験する。 

(444) 奥華子さんや、秦基博さんといった面々と連れ立って、関東ローカルツアーを行ったのもこの頃。東京以外の、首都圏郊外の市民会館を、若手何組かでまわるツアーだ。

奥華子さんは、インディーズ時代からたびたびイベントで一緒になった。デビュー直前に渋谷O-WESTで初めていきものがかりの主催イベントを開いたときも、奥さんに出演して頂いた。 

成功も失敗も、3人で分け合って受け止めればいい僕らに比べ、鍵盤とご自分の身ひとつでステージにあがり、堂々と歌われる彼女の姿が、当時の自分たちからは眩しかった。奥さんの特徴であるかわいらしい歌声のイメージの向こうには、強い芯があるように思えた。 

関東ローカルツアーで出会ってからというもの、いろいろな現場で会うたびに、さんざんちょっかいを出してしまったのが秦基博さんだ。年上だけどなぜか秦さんは何でも許してくれる気がして、当時現場で姿をみかけるたびに僕ら3人は用もないのに、ニヤニヤと秦さんを見つめた。 

「ぜったいバカにしてるっしょ!」と怒りながら、笑ってくれるのが秦さんで、あの当時から、兄のように慕った。すばらしい楽曲と歌声は、言わずもがなで、初めて聴いたときは本当に衝撃だった。こんなに素晴らしいアーティストなのに、こんなにお茶目なんて!笑。

音楽プロデューサーの島田昌典さんを囲む「島田会」というイベントがある。そこでコラボレーションをすることになり、秦さんと初めて一緒にリハーサルスタジオに入った。もちろんライブではその歌声を聴いていたけれど、横に並び、至近距離で生声を聴くのはその時が初めてだ。

「弾き語り」を武器とする男性シンガーは世に数え切れないほどいる。数万はくだらないだろう。その数万人から、彼がたったひとり強い輝きを持って世に出てくる理由をそこで初めて体感した気がした。秦さんの歌声を聴いて、勝てない…と知り、夢をあきらめたシンガーも沢山いるはずだ。 

秦さんは同期デビューのひとりだ。秦さんも、今年デビュー10周年を迎えることとなる。ファンモンと同じように、刺激を受け合いながら、ともに歩いてきたと思える同志だ。 

意外に思われるかもしれないけれど、チャットモンチーの皆さんとも初期に出会っている。共通の知り合いの方が、両グループを引き合わせてくれて、あるとき、ご飯をみんなで食べようとなった。それがたまたま、いきものがかりの結成日だった。 

目指しているものは両グループにそれぞれだけれど、だからこそお互いの違いが刺激になって、そのときはすごく盛り上がって、楽しかった。久美子さんが新しい道へ進むことを決め、3人最後のイベント出演となった日は、メンバーで話し合って3人でこっそり見に行った。 

あの楽しかった会から、ずいぶん経ってしまったけれど、互いに、自分たちが目指すものに対してまっすぐと、それぞれの場所で、走りつづけられていることが、嬉しい。 

当時は今ではなかなか実現できない組み合わせでのイベントも多かった。シドと、ONE OK ROCKと、いきものがかりが、ともにZeppTourを回ったなんて話、みなさん信じられるだろうか。音楽誌主催のイベントツアーだったけれど、今だにあれは貴重な対バンだったなと思う。 

自分たちのライブツアーではなく、場合によってはアウェーとも呼べる環境でパフォーマンスをすることになるイベントライブは、否応なく、僕らを鍛え上げたと思う。そういう機会に多く恵まれていた自分たちは、幸運だった。  


ひとまずはここまで。乱文、お粗末様でした。

『第18回 -後編-』はのちほど。









『第18回 -後編-』

   ”約束”の場所へ。  


(457) デビューして数ヶ月、あれは夏頃だったろうか。思いも寄らない話が3人のもとに聞こえてきた。レコード会社の社長のカズさんが、いつもの調子で突拍子もなく自分に伝える。「おぉ、水野、あれや。なんか小田さんがお前らのSAKURA、聞いてるらしいわ」 

「CM見ていい曲だって。カズ、お前のところのヤツらだろって、言われたわー」正直、信じられない話だ。またカズさんが話を大きく盛ってしゃべってるんじゃないかと思った。「え?小田さんってあの小田さんですか?」「おぉ、小田さんいうたら小田和正さんや」 

カズさんには悪いけれど、信じなかった笑。しばらくして、また数ヶ月たって、今度はもっとはっきりとした話が自分たちに伝えられた。「クリスマスの約束に出てくれないかと、お話がきました。」 

毎年末にTBSで放送される「クリスマスの約束」。小田和正さんの音楽番組だ。同じ時代を生きている多くのアーティストたちが、互いに認め合い、敬意を伝えあえるように。小田さんの想いをもとに2001年にスタートしたこの番組の初期の放送を、学生時代、自分は実家で見ていた。 

ちょうどその頃のいきものがかりはどんな状況かと言えば、受験や、吉岡の音大での挫折などで、まったく活動をしていない時期だった。音楽の道を志す気持ちが芽生えていたけれど、ただの1歩も前に踏み出せてはいない頃。テレビで見た小田さんの姿は、もちろん別世界のものだった。 

「ああ、いつかこのひとに呼ばれる日が来ないかな。」なんていう夢物語を考えても、それはあまりにも非現実的すぎること。「そもそも、いま、俺、音楽やっていないじゃないか。スタートラインにも立っていないのに」ただ、ぼぉーっと画面を眺めながら、あの歌声に感動するだけだった。

デビューしてがむしゃらな数ヶ月を過ごして、しかしまだ自分たちの名は、全国ではっきりと知られているわけではない。ファーストアルバムも出ていない。ディレクターとの格闘はデビュー後も続いていて、日々は本当につらい。そのなかで突然射した、光のような話だった。  

リハーサル前に、小田さんの事務所で打ち合わせ。ここで初めて、小田さんと会うことになる。事務所のリビングのようなところに通され、ほぼ硬直したまま、3人で待つ。奥から、あのひとが、やってきた。 

「ああ、小田さんって、実在するんだ…。」山下がそのとき思ったこと、である。なんだか怒られそうな話だけれど、ついこないだまで普通の大学生だった田舎の若者だ。自分も隣にいて、そう思ってしまう気持ちはすごくよくわかった。

「どうも。はじめまして。小田です。」静かに僕らに挨拶をしてくれた。3人とも心のなかで思った。「知っています。」それが小田さんとの出会いだった。 

リハーサルで曲のテンポの話になった。CDの音源より、少しだけ早めないか。小田さんが提案をしてくれたのだけれど、バラードということもあってちょっとの差で大きくイメージが変わる。素直に吉岡が「いや、このままのテンポがいいと思います」と伝えた。 

小田さんはそのことが印象に残っていると、後に伝えてくれた。若い連中が素直に意見を言ったのを、少し嬉しく思ってくれたようだった。それから今に至るまで数年間、小田さんと意見のやりとりをする貴重な機会を、何度も自分は得たが、小田さんはいつでも耳を傾け、向き合ってくれた。 

ステージに上がる瞬間は「夢が叶うんだな」と思っていた。そんなことを思ったのは、この10年間で、あのときだけだったと思う。「目標が叶う」と思ったことは、幸せなことに何度もあったけれど、「夢が叶う」という言葉が頭をよぎったのは、あのときだけだ。 

その日、出演したアーティストで、小田さんと同世代の斎藤哲夫さんがいた。楽曲は「悩み多き者よ」「グットタイムミュージック」素晴らしかった。小田さんが聞く。「今まで長いこと音楽をやってきて、いまどう思う?」斎藤さんは笑顔で即答した。「幸せでしたね。」 

とても印象に残った一言だった。まだ始まったばかりの僕らにとって、はるか遠い言葉だったけれど、希望のような言葉にも思えた。「クリスマスの約束」はその後も、自分にとっては、音楽を続けていくうえでの希望と呼べる光景を、何度もみせてくれた。 

小田和正というひとに出会えたこと、その背中をときに後ろから、ときに横に並んで、みつめる機会を何度も得たことは、自分にとってかけがえのないことだ。小田さんが実の両親と同い年だということも、おそらく自分が小田さんを慕う気持ちを強くさせていると思う。 

いつも強い風のなかで、ずっと戦いつづけている。でも、その厳しさを、自分から語ろうとはしない。ただ静かに、鍵盤の前に座り、歌を届けるだけだ。その背中を、遠い背中を、追っている。
  

今日はここまで。乱文、長文、お粗末様でした。




次回は『第19回』




















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