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「いきものがたり」まとめ 4 (第5〜6回) [いきものがたり]


2015年11月24日 第5回    

 『第5回』

 

今日の1枚。
サンダースネイク厚木、
2003年6月のライブスケジュールが書かれたチラシ。
初めてのライブを行う、いきものがかりの名前がある  

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やっと活動を始めることを決心してくれた吉岡。物事の歯車は、それまでのことが嘘だったみたいに、くるくると動き出した。水野と山下は、浪人時代に学習室の休憩スペースで語り合っていた”計画”を、少しずつ実行に移していく。

まず最初にしたのは高校時代のバンド仲間に声をかけること。「自分たちのバックバンドをしてくれないか」”サポートミュージシャン”という言葉をまだ知らなかった。まだライブハウスで一度もライブをしたことがないのに、いきなりバックバンド。そんな無茶なことを考えたのには理由がある。

水野と山下で決意していたことがあった。この道に挑むのなら「路上ライブのスタイルを、捨てよう」そう二人で決めていた。

もうその頃には、ゆずのお二人は確固たる地位を築いていて、そのあとに出てきた路上出身グループも、実力のあるひとたちを残して淘汰されはじめていた。そもそも地力のない自分たちが、ゆずさんと同じようなスタイルで、世に出られる気がしなかった。

路上ライブのアコースティック編成を押し出すかたちでは自分たちは世に出られない。J-POPや歌謡曲が好きで、本来は様々なタイプの曲をつくりたいのに出自である路上スタイルに固執したら、それが十分にできない。当のゆずのお二人でさえ、多様なサウンドスタイルにもう踏み込んでいた。

ゆずという大きな存在が登った山を、後から登ろうとしても勝てるわけがない。自分たちの山を、自分たちの手でみつけなければ…。演奏は素人同然、つまるところ男子二人がつくる曲と吉岡の歌しか武器はないのだから、それを最大限に生かせるスタイルをみつけなければ。そう思っていた。

どんな曲でも可能になるバンドスタイルになれないか。でも自分たちが3人であることは崩したくない。どうしようとなって、そこで恥ずかしさを知らない奇想天外なアイディア「バックバンドをつけよう」という言葉が出てきた。素人考えの勢いで、ただ突き進んでいるだけだったと思う。

高校時代のバンド友達に声をかけると、快く引き受けてくれて、すぐにドラム、ベース、キーボードのメンバーが集まる。ついでに高校時代、エレキを多少は弾いたことがあるからという理由で、自分が”アコギ”から”エレキ”に転向することになった。もう、恥ずかしいくらい、ざっくりしてた。

そのとき集まってくれた友人たちはそれから約1年、ほぼボランティアで活動を助けてくれた。練習スタジオの料金を割り勘で払ってくれたりまでした。3人きりだった僕らに、まず最初に手を差し伸べてくれたのは彼らだ。彼らがいなくては何も始まっていない。本当にすべてが、始まっていない。

ちょうどその頃、地元に新しく出来たライブハウスがあった。駅前でチラシをもらったとかでその存在を知った吉岡が、事前に電話で問い合わせてみたら、対応がすごく丁寧でよかったと言う。では、そこを訪ねてみようとなって、山下とそのライブハウスを訪れた。

サンダースネーク厚木。名前のいかめしさそのままに、そこはバリバリのハードロックスタイルのライブハウスだった。受付の壁一面に、無数のビジュアル系のバンドポスター。店員さんはみんな長髪。店内で初めて会話した店長だという男性は、金髪でシルバーアクセサリーをしていた。

「あのぉ〜すみません。ライブしたいんですけれどぉ〜」「おぉ、ライブ。いいねぇ。君たち、学生さん?お友達のバンドとかはいるかな?」「あぁ〜いません」「だと仲間のバンドをみつけるか、うちのブッキングの審査を…」「あぁ〜僕たちだけでライブしたいんです」「ん?え?」

一応、説明しよう。通常、インディーズのバンドというのは集客が少ないところから出発するのが当たり前で、自分たちの客だけではライブが成り立たない。だから仲間のバンドを呼んで自前でイベントを主催するか、ライブハウスのブッキングでチケットノルマを果たしつつイベントに出るか。

ようは「対バン」と呼ばれるかたちで、ライブをこなしていくのが、最初のスタートラインなのだ。逆に、自分たちだけで成立させるライブのことを「ワンマンライブ」という。活動したてのバンドが、まずひとつの目標にするのが、この「ワンマンライブ」の実現だ。

だから当然、ライブハウスの店長は、突然やってきたどうみても素人同然のあどけなさ残るこの学生たちが「自分たちだけでライブやりたいんです(=ワンマンライブやりたいんです)」と言い放ったことに、目がテンになってしまったのだ。

ただ、店長は優しかった。ものを知らぬ学生なのだろうと、瞬時に察してくれたんだろう。「き、き、君たち、対バンってシステムは知ってるかな?」「知らないっす」嘘だと思うかもしれないが本当の話である。僕らは、大人の対応をしてくれた優しい店長にそう言った。だって知らなかったから。

「き、き、君たち、ライブハウスでライブしたこと、あるかな?」「いや、ないです。はじめてです」「そ、そ、そうだよね」「路上ライブならしたことあります」「路上?…あぁ、駅前とかでやるやつかな?」「そうです」「う、うん。路上とライブハウスは違うからなぁ…あはは…」

「あ…いや。もう一度聞くけど、えっと、君たちだけでライブをやるってこと??」「あ、はい」「そ、それは難しいんじゃないかなぁ、あはは。まずは対バンで他のバンドと…」「え、だって、ミスチルだって、ドリカムだって、ひとつのバンドでライブやってるじゃないですか?」

信じるか信じないかは、あなた次第…。ではない。本当に僕らはこのセリフを吐いたのである。知らないとは恐ろしい。知らないことの強さはすさまじい。若すぎて、バカすぎた。世の中のバンドマンの誰もが呆れかえるこんなセリフを吐いた幼き僕らに、キレなかった店長は優しすぎる。

バカだった。が、しかしバカなりの自信が、なぜか僕らにはあった。「う、うちのハコは、キャパ300人だよ…?300人もお客さん集められないでしょ?」「いや、大丈夫だと思います」その数ヶ月後、優しい金髪の店長は、この恐ろしく世間知らずの若者たちの、奇跡を見ることになる。

 

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第6回』。

 

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この日いきものがかりはRADWIMPSがホストの対バンライブに出演しました。 

 

 

第6回 2015年12月3日

 

  今日の1枚。
2003年、初めてのワンマンライブのチラシ。  

 

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ライブハウスで一度もライブをしたことがないのに、いきなりワンマンライブをする。サンダースネーク厚木の店長もびっくりドン引きの無謀チャレンジ。がしかし、本人たちには、その自信に根拠がないわけじゃなかった。

高校時代の路上ライブを応援してくれていたお客さんたちが、まだ自分たちのことを気にかけてくれていた。「また、いきものやらないの?」と、何度もいろんなひとが声をかけてくれて、そのひとたちが、戻ってきてくれるんじゃないかという気持ちがあった。

それに当時は学生で、友人たちにも声をかけるつもりだった。「対バン」というシステムさえ知らなかった当時の僕らに「友達にはチケットは売らない」というような、バンドマンの清廉なプライドのようなものがまだあるわけもなく、来てくれるなら友達でも、家族でも、みんな来て欲しかった。

4月には、路上ライブを再開。路上ライブでチラシを配り、そこで心をつかんだお客さんたちに、ライブハウスに足を運んでもらう。簡易的なホームページをつくり、ライブで配布する歌詞入りのパンフレットもつくった。細かい作業ばかりだったけれども、素直に楽しんでいた。

実は、活動休止をしているあいだも、水野と山下はそれぞれに曲だけはつくっていた。音大で壁にぶつかって「歌いたくない」と言っていた吉岡が、いつやる気になってもいいように、ワンマンライブができるだけの楽曲を用意してあったのだ。

のちにシングル曲となった「花は桜 君は美し」や「ノスタルジア」も、その頃につくった楽曲だ。格好をつけてうんと良く言えば、自分たちの音楽の骨格のようなものを、知らず知らずのうちに、この頃につくっていたと言えるのかもしれない。

たまっていたオリジナル曲を、ライブでサポートメンバーをしてくれる高校時代の友人たちと、練習スタジオで合わせていく。楽曲のアレンジなんてしたことがない。手探りもいいところで、もうとにかく手当たり次第、思いついたことをみんなでやってみる。それがすごく楽しかった。

お金もなかったのでサンダースネークに併設されている練習スタジオを深夜割引で借りて、朝までよく練習した。楽しかったけれど、負担も大きかったと思う。本当に根気強く、練習に付き合ってくれたサポートメンバーの友人たちには感謝しかない。彼らは当時、就職活動もしていたというのに。

あるとき、活動をするうえで少し理不尽なことがあった。今から考えれば小さなことだったかもしれない。でも、まだ僕らも覚悟が足りない頃で戸惑っていた。そんなとき、ベースを弾いてくれた友人のK君が、スタジオの近所のラーメン屋で、笑顔で僕らに言ってくれた。

「まぁさ、"正しいことをするには偉くなれ"ってワクさんも言ってたじゃん?」当時、大ヒットしていた映画の「踊る!大捜査線」で、いかりや長介さん演じるベテラン刑事が呟いた名台詞だ。「俺らさ、いきものはきっと大きなところにいけると思うんだ。がんばってよ。」

映画のセリフを持ってきて冗談のようにかけてくれた言葉だったけれど、それから今まで、なにかどうしようもない理不尽にぶつかったときは、3人の合言葉として、K君が笑顔で言った「正しいことをするには、偉くなれ」を思い出した、必ず、苦笑いしながらでも、3人で言い合った。

自分たちの活動にとって”正しいこと”は、その時代ごとに違うのかもしれない。変わっていったことも、もちろんあるだろう。だけど逃げずにやってこれたと、今、少なくとも心のどこかで思えているのは、その言葉のおかげのような気もしている。

2003年6月2日。サンダースネーク厚木の楽屋に、いきものがかりの3人と、その3人を助けようと、世の中でいちばん初めに手を差し伸べてくれたサポートメンバーたちが、ライブの始まりを待っていた。

サンダースネークはハードロックスタイルのライブハウスだ。他のライブハウスにはない大きな売りがある。なんとステージ上に緞帳代わりの電動シャッターがあり、ステージがガレージのようになっているのだ。ライブが始まるとシャッターが音を立てて上に開き、その奥から出演者が登場する。

客席からは、なかなかに壮観な光景になるのだけれど、演奏する側からすると、ステージ上に待機しているときは、目の前が無機質なシャッターで、その向こうにいるお客さんの様子を伺い見ることが出来ない。とてもドキドキするのだ。ましてや、はじめてのワンマンライブだ。

1曲目に選んだのは「花は桜 君は美し」。頭サビ。今では自分たちの定番のスタイルだ。もう6月で、すこし季節はずれな曲だったのかもしれない。遅すぎる春だった。僕らにとっては、ほんとうに、待ち遠しい、春だった。

目の前の電動シャッターが動き出す。ついに幕が開く。「花は桜 君は美し」のイントロを弾き始めた。少し手が震えた。吉岡が歌い出す。頭サビを歌いきったときシャッターが開いた先に300人の顔があった。笑っていた。

一生忘れられない光景だ。
僕らの人生が、始まった瞬間だった。

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第7回』。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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「いきものがたり」 まとめ 3 (第3~4回) [いきものがたり]

 
第三回 2015年11月11日 


『第3回』

今日の1枚。
高校時代に山下から渡された「夢題〜遠くへ〜」のコード譜

 

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 本厚木駅前での解散ライブを経て、いきものがかりの3人は、それぞれに淡々とした高校生活に戻っていった。(ま、それまでも何の変哲も無い普通の高校生だったのだが)男子二人は受験へ向かい、吉岡は自分の高校内でのバンド活動にいそしむようになっていた。

やがて春が来て、桜は散り、あえなく浪人生活に入った。男子2名ともに。自分は都内の私立大学に一旦入学したが、思うところあって再受験を決意していた。海老名サービスエリアで早朝アルバイトをして予備校の費用を捻出し、朝はバイト、昼は大学、夜は予備校。という生活を1年ほど続ける。

受験も差し迫った冬の頃だったろうか、以前にも話に出てきた近所の公民館の学習室で、ふたたび、山下と顔を合わすようになる。他にも多くの学生がそこを訪れていて、遅くまで勉強をする。いつも同じ顔ぶれなので、自然と連帯感のようなものが生まれていた。

学習室の前に、小さな休憩スペースがあって、そこにベンチが置いてある。息が詰まると、誰ともなく皆その休憩スペースに集まってきて、たわいもない雑談をする。ついつい長居することもしばしばで、気分転換のつもりが、ずっとそこで友達と話し込んでしまったりすることもよくあった。

山下ともよく話した。浪人生活はやはり気が滅入るので、二人とも受かったあとに何をするのかを楽しく想像することで現実逃避をしていた。「あの楽しかったいきものがかりを、もう一度、ちゃんとやろう!」自然とそんな話ばかりするようになった。

思い出すと恥ずかしさがあるが夢物語ばかり語っていた。「笑っていいとも!」に出てみたいとか「ミュージックステーション」や「紅白」に出てみたいとか。オールナイトニッポンのパーソナリティになってみたいとか。横浜アリーナでライブをするようになりたいとか。絵に描いたような夢物語。

そんなとってもミーハーな夢を無邪気に語りあっていたわけだが、10代の妄想力というのは案外すごいもので、海老名厚木の片田舎から世に出て、そのミーハーな夢を叶えるまでの約数年分の行動計画を、1から100まで本当にこと細かく話し合ってしまった。勉強しないで、なにやってんだ。

しかも近所の公民館の休憩スペースで。恐ろしい勘違いだったと思うけれど、横浜アリーナまでの道(←誇大妄想)が、そのときのバカ男子二人には見えてしまっていた。現実を知らず、怖さを知らず、恥ずかしさを知らないからこそ、できた語り合いだったと思う。なにより、若く、青かった。

今から振り返れば、本当に楽しい時間だった。あのときの自分たちは、まだ現実には出会っていなかったからだ。夢を語るだけでよかったからだ。「わたしはそこにはいなかったんだよなぁ。ずるいなぁ。」と、そのときの話になると、よく吉岡はすねて言う。

あの休憩室で話し合った行動計画をそのあと数年かけて、本当にひとつひとつ実行に移していくことになる。計画通りに進まなかったことがほとんどだけれど、経緯はどうあれ、結果としては休憩室で夢見たことのほとんどは、叶った。出会いに恵まれ、運が良かったんだと思う。

ちなみに正確に言うと、オールナイトニッポンについては、夢を語り合っていた男子二人は念願叶わず、めでたくパーソナリティーに選ばれたのは吉岡ひとりだった。ある時期はずいぶんそのことを話のネタとして使わせてもらったものだ

夢物語のその後の話を先にしてしまったけれど、実は受験が終わったあと、自分としては16年間のなかで最も苦しかったと思う時間を、いきものがかりは過ごすことになる。水野、山下の、子供じみた夢いっぱいの行動計画が本当に始まるのは、実はもう少しあとの話だ。

吉岡が、歌いたくないと、二人に告げてきた。

 

 

今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第4回』。

 

 

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小学校のマラソン大会。
リーダー(前)とほっち (後)

 

 

 

第4回  2015年11月19日

 

 

  『第4回』

今日の1枚。
このタンバリンは今も現役で使われています。

 

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吉岡は、地元の音楽大学への進学を決めていた。将来は歌をつかった仕事を…と考えていた彼女は、歌から踊り、芝居まで、広く多くのことを学べると考えてミュージカル科を選んだ。

新しい大学生活もすこし落ち着きはじめた頃だろうか、水野と山下は、受験生時代に話し合ったように、いきものがかりの活動を本格的に再スタートするつもりでいた。今度は、思い出づくりではなく、互いの将来を賭けるものとして。

さっそく吉岡に声をかけると、しかし、思いもしない言葉が返ってきた。「歌いたくない」

高校生まで、ほぼ独学に近いかたちで、自由に歌に接してきた吉岡。歌好きな大家族のもとで育った彼女は、祖父母や両親に教わった童謡から、クラスのみんなの人気者になれるポップスまで、本当にのびのびと、天真爛漫に、歌を歌ってきた。

それが音大に進学し、専門的な訓練にはじめて触れて、容赦ない評価を指導者から下される環境に入った。同級生たちも、能力のある人間ばかり。ただ楽しく歌っていた歌に、吉岡はこのときはじめて、真正面から向き合うことになった。

いざ真剣に向き合ってみれば、自分が技術的に足りない部分が山ほどあることに気づく。彼女いわく「歌い方がわからなくなる」ほど、混乱もした。それまで心のおもむくままに歌ってきたものを、順序立てて考えていかなければならなくなって、戸惑ってしまったそうだ。

基礎も築けていないのに、軽はずみにポップスを歌えない。将来的にポップスを歌うところまで行き着きたいけれど、まだそんな段階にはない。生来の生真面目さもあるのだろうけれど、真正面から考えた結果が、まだ「歌えない」という言葉だったようだ。

いや、困った。本当に困った。大人になった今から振り返れば、そのときの吉岡の言葉も理解できるけれども、当時は活動ができないということに対する焦りが強く、自分自身は大きく戸惑った。説得というより、ただの喧嘩だ。吉岡とは何度もぶつかった。

そうこうしているうちに、今度は山下が海外に行ってしまった。いきものがかりの活動が進まないとわかると、彼はそのまま東南アジア各国をまわるバックパッカーの旅に向かった。たびたび1、2ヶ月の長い期間をとって、日本を離れる。たまに居場所と生存を伝える英文のメールがきた。

山下はそうやって活動休止期間をやり過ごしていたが、自分はそこまで器用ではなく、活動ができないことがつらくて仕方がなかった。心のなかでは音楽の道に進もうと、もう固く決意していた。なのに、自分はたった1歩でさえ、前に進んでいない。それが、つらすぎた。

のちに書くと思うけれど、いきものがかりはデビュー直前にレコード会社の育成期間があって、それもタフな時間だった。だけど個人的にはこの頃のほうがつらかった。前に進むことで生まれるつらさは、まだいい。前に進めない。トライもできない。動けない。そのことの方が、よっぽどつらい。

ただ不思議と、吉岡以外のボーカリストを探そうという話には、一度もならなかった。水野も山下も、自分たちの真ん中にいるのが吉岡であること、逆に言えば吉岡の両側にいるのが自分たちであること。それ以外の想像がつかなかった。何の根拠もないのに、そう思っていた。

本厚木の駅前にサイゼリアがあって、そこでよく話し合ったのを覚えている。大学1年も終わりかけ、自分はもう、やけになってしまっていて「もうこれ以上は待てない。自分は音楽の道に進みたいから、いきものがかりからは離れて、自分でなにかやる」と二人に告げていた。

帰国した山下はそれを聞き「そろそろやばいかな。本当に解散してしまう」と思ったそうだ。山下自身も旅先で色々と考えていたようで、このままだと自分がせっかく書いた曲も、いつか自分の子供に自慢して終わるだけの、ただの思い出になってしまう。それではむなしいなと、思ったらしい。

2003年の2月。水野は自動車免許をとろうと、山形の余目に合宿教習を受けに行った。のどかな田園風景のなかで教習を受けていると、突然山下から電話が入った。「なんか、きよえ。やる気らしいよ。」「は?まじか!?」

山下は常々ぶつかりあっている吉岡と水野をみかねて「良樹がいると話がこじれるな」と思ったらしく、水野がいない時期を狙って吉岡を呼び出し、1対1で話し合って「やってだめなら、やめればいい。だったら一度はやってみたら。」と説得したそうだ。吉岡が、それであっさり折れたという。

寸分たがわぬ言葉を1年間にわたって水野も吉岡に伝えていたが、たった1回の山下の言葉のほうがなぜか効いてしまい、吉岡は説得に応じた。…という話は、いまでもよくネタにする笑い話だが、つまるところ、水野と山下は、吉岡がボーカルでいてくれることをあきらめなかった。

本人たちにその自覚があったかどうかは別にして、この2003年に、3人と、3人を遠くない未来に支えていく多くの人々の、人生の歯車が少しずつ噛み合い始めていく。出会いは、もうすぐそこにあった。ただまだ3人は、本当に3人きりだった。そこには、僕らの他に、まだ誰もいなかった。




今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第5回』。












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「 いきものがたり 」 まとめ 2 (第1回〜2回) [いきものがたり]


第 1 回 2015年11月3日


『第1回』

今日の1枚。
いきものがかり、3人。


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吉岡との出会いは、厚木市内の市営スタジオの廊下。今は無いが、当時、図書館に併設された簡易的な防音スタジオが市民に安価で貸し出されていて、お金の無い高校生はそこでバンド練習をするのが常だった。

椎名林檎さんがブレイクをした頃だった。椎名林檎さんのコピーバンドをしたいと、友達連中で盛り上がる。しかし肝心の女性ボーカルがいない。当時の母校はバンド活動が盛んで、相談する仲間はたくさんいた。すると友人のバンドでボーカルをしていた”吉岡くん"の妹が「歌がうまい」という。


スタジオで待ち合わせた。早めに着いた自分は、廊下で座って待っていた。間もなく、ベーシストの男の子がくる。彼とも、その時はまだそれほど親しくなかったので、ふたりでぎこちなく雑談をしていると、廊下の向こうから、とんでもなく明るいオーラを放った女の子がやってきた。


突然、親しげにベーシストの男の子に挨拶をするので「知り合いなの?」と聞くと「いや、この子だよ。吉岡くんの妹。この子が、ボーカルの聖恵ちゃん。」「あ、君が。」それが、吉岡聖恵だった。


「はじめて吉岡さんの歌声を聴いたとき、運命を感じましたか?」などと訊かれることがたまにあるけれど、そんなにドラマチックな感情はなかった。ただ、とっても明るい子だなぁということと、とっても歌がうまい子だなぁということ。


しばらくして彼女を、いきものがかりのボーカルに誘ったらいいんじゃないかと思うようになる。歌が上手いことはもちろんだけれど、何よりその天真爛漫なキャラクターが、水野と山下の二人に挟まれた真ん中に、とても合いそうな気がした。


いつもの帰り道。たしかもう、夜だった。相鉄バスの一番後方の席。横並びに座った隣に、山下がいた。”聖恵ちゃん”という女の子のことを、そのとき初めて話した。


「吉岡くんの妹が歌がうまいんだよ。誘ったらいいと思うんだ」「おお、いいじゃん。誘ってみれば」そんな会話。すると驚くことにその瞬間に、当の本人である吉岡からメールが来た。「水野くん、路上ライブをしているって聞きました。よかったら一度、私も一緒に歌わせてくれませんか?」


16年もやっていると「ああ、今、人生が変わるのかもな」と思う瞬間に何度か出会う。最初にそれを感じたのは、この時だった。誘おうという話をしていたまさにその瞬間に、吉岡からのメール。その驚きを強く覚えている。でも、山下はその日のことをあまり覚えていないらしい。


吉岡加入前に、よく水野と山下で路上ライブをやっていた相模大野駅の近くには、女子高がある。その女子高で文化祭があった。年頃の男子高校生だ、山下と友達数人でそこに遊びに行くことになった。そのなかには吉岡の兄もいた。文化祭帰りに、いつもの流れで路上ライブをやることになる。


吉岡の兄が「うちの妹と一緒に路上ライブをやるって話になってるんでしょ?今から、あいつを呼ぼうか?」電話で妹を呼んでくれた。しばらくすると赤い縁のメガネをした吉岡がやってきた。山下はそのときが初対面。そのメガネの印象が強いと言う。吉岡は「精一杯のおしゃれだった」とのこと。


その場でキーを合わせ、ゆずの「夏色」を歌った。このときもドラマティックな感覚はなかった。山下も、別に何とも思わなかったという。吉岡からも 「ただ楽しかった」くらいの感想しか聞いたことがない。あえて言うなら、不思議なほど3人になったことが”自然”ではあった。


今から思えば3人であることが、初めて一緒に演奏したその日から"自然"であったことのほうが"特別"だったのかな、とは思う。安い芝居じみた言い方をすれば「まるで最初から、そうであったかのように」

ちょうど16年前。99年11月3日。
僕らは、やっとスタートラインに立った。


今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第2回』。

結成16周年を迎えました。

これからもよろしくお願いします。いつも、ありがとう。  

 

 

 

 リーダー昼のツイート 

   いきものがかり、サプライズ失敗。  

 

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   この日行われたサプライズイベント
   こちらはまた別の記事にて

 

 

第 2 回 2015年11月6日 

『第2回』

今日の1枚。

高校時代の路上ライブ。

 

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吉岡が加入して3人となってからの路上ライブは毎週水曜日、本厚木駅の北口、タクシーロータリー前。スマホはまだない。ネットが今ほどは普及していなかったから、ホームページで告知...なんてこともない。いつも同じ時間に、同じ場所でやる。それがいちばん手っ取り早い。


練習場所は母校の校舎などで。ひとり、別の高校にいた吉岡は、よく放課後に兄のジャージを借りて、水野と山下がいる学校へ紛れ込んでいた。


先生にみつかり、こっぴどく叱られたこともあった。「君、本当にうちの学校の子か?クラスは?」吉岡「2組です」「うそつけ!うちの高校のクラス分けはA組、B組…のアルファベットだ!」吉岡「ああ!すみません」「君、吉岡の妹だろ!知ってるんだぞ!」知ってるんかい、と思った。


吉岡が加入してからは客層も大きく広がり、学生も、スーツ姿の大人たちも、家族連れも、誰もが立ち止まってくれるように。学校帰りに3人とも学生服のまま路上ライブをしていたので、その姿も珍しかったのだろう。その頃から今まで、あまり客層に変化がないことは、ありがたいし、誇りだ。


路上ライブのエピソードには事欠かない。本厚木駅は夜9時からが露店の時間と決まっていたらしい。9時になると「たこやき屋のオヤジ」が軽トラでやってくる。「邪魔だ!」と大声で怒鳴りながら。演奏するメンバーとお客さん。その間のわずか数mの空間に軽トラを停める。さえぎるように。


「誘っていないけれど、なぜかコラボレーションをしてくる人たち」も多かった。演奏の横で踊り始めたり、自分たちの目の前に突然ヘッドスライディングをしてきたり、ボンゴを持ってきて曲に合わせて夢中で叩きはじめたり。マイクを奪って歌おうとする酔っ払いのおじさんも多かった。


そういうときは焦ってしまったらいけない。トラブルが起きたと思って客が逃げてしまう。ユーモアを交えてうまく対応できれば、逆に「おもしろいことが起きている!」とお客さんが集まってくる。ずいぶんと鍛えられた。酔っ払いのおじさんと絶妙な掛け合いをするのが、吉岡はうまかった。


とにかく楽しかった。音楽の道に憧れはあれど、いきものがかりでプロになろうなどとは、3人とも高校時代は考えていなかった。例えるならそれは、学校の部活動のようなもの。ただただ、楽しかった。そんななかで少し意識に変化が生まれるできことが訪れる。


路上ライブに、某有名番組のスタッフを名乗る大人が訪ねてくる。新人を売り出すオーディションがあるから君たち受けてみないか。今から考えれば、怪しいことこの上ない話だが、なにせ世間知らずの田舎の高校生だ。「これは世に言うスカウトってやつかっ!」と、びっくりしてしまった。


ノコノコと行ったこともない東京のど真ん中?赤坂見附のオーディション会場に3人で出向く。2曲ほど歌ったと思う。自分が演奏中、緊張で無表情だったようで「君はやる気があるのか?」と審査員らしき男性に怒られた。不本意でムスッとした。今でもその時のことをメンバーにからかわれる。


それでも「合格です」と後日、連絡がくる。勢いで受けたがさすがに呑気な高校生でも、いよいよ「あれ?これはやばいんじゃない?俺ら、騙されてない?」本当のところを言うと騙されていたのか、ちゃんとしたものだったのか未だにわからないのだが、このまま話を進めるのはよそう、となった。


そのオーディションがきっかけとなり、将来について話すようになる。誘われた話自体はあやしかったが、それまで楽しいだけでやっていたものの「先」が、もしかしたらあるのかもしれないと思ってしまって、急に3人とも、戸惑ってしまったのだ。まだ10代だ、無理もない。


吉岡と水野は音楽の道に進もうと当時から考えてはいたが、それが「いきものがかり」で、とは思っていなかったと思う。その頃の「いきものがかり」は、とにかく”楽しい”だけだった。真剣に考えれば考えるほど、軽はずみな気持ちで、この道の先を進んでは行けないように、そのときは思えた。


高校生なりに話し合った結果、このグループは楽しいままの思い出として、高校のうちにおしまいにしよう、解散しようとなった。それこそ夏の大会で引退をする部活動のように。水野や山下はもう3年生になっていて、受験も控えていた。地元の駅で解散ライブをすることになった。


解散ライブのことはよく覚えている。本厚木駅の広場に100人か200人か、高校生3人の路上ライブにびっくりするほどの人が集まった。いつの間にか地元では少し名を知られているようになっていた。充実感もあったし、高校時代の素敵な思い出となった。ああ、楽しかった。そう思っていた。


解散ライブのために3人で配った手作りの宣伝用チラシには、格好をつけてこんなセリフが大きく書かれている。「これを逃すと、もう会えない」まさか、想像していなかった。それから15年後の今も、たくさんの人に会いまくっているだなんて。

 


今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第3回』。

 

おまけの1枚。

15年前の解散ライブのチラシ。

もう会えない…てか、すごく会えてる。

 

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 リーダー翌7日朝のツイート

  「いきものがたり」今後はだいたい1週間に1回くらいの頻度で、
  のんびりやっていきます。

  どこまでやるかは未定。さすがに、みんな飽きてくるんじゃないかな?と思って笑。   

 

 

以下、私からのおまけ。。。

 リーダー11月3日 打ち上げツイート 

 

   結成16年の、なんとかがかりのひとたち。   

 

 

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次回まとめ 3 は第3回から 

 

 


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「 いきものがたり 」 まとめ 1 (ー1回〜0回) [いきものがたり]

 

第 -1回 2015年10月26日

 

2016年3月15日の、デビュー10周年にむけて。

 連続ツイート企画 

【いきものがたり】

不定期更新です。

 

『第 −1 回』

今日の1枚。
二人時代のいきものがかり。

 

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始まりは、27年前。神奈川県海老名市。小学校1年生。山下と出会う。「ほたか」という名前が「ほたる」と聞こえて、変わった名前だなと思ったことが初対面の記憶。クラスメートだったが、幼なじみと呼べるほど仲が良かったわけではない。

1年1組だった。大きなマンションが近所に出来て、夏休みが明けるのを機に、100人ほどの転入生が入ってくることに。あまりの転入生の多さに、入学早々だったがクラス替えをすることになった。そのため、山下とクラスメートだったのは1学期のあいだのわずか数ヶ月間だけだ。


そのわずかな期間に二人で任されたクラスの係りが”いきものがかり”。廊下に小さな水槽があり、金魚にエサを与える。普通は飼育がかりと呼ぶのだろうが、小学校1年生に「飼育」という言葉は難しいと思ったのだろう、担任の先生が”いきものがかり”と名付けた。

はからずも”名付け親”となってしまった担任の先生は、ずいぶん後になってからテレビに出ている”いきものがかり”というグループのメンバーが、自分の知る「みずのくん」と「やましたくん」であると、人に知らされて、気づいたそうだ。ライブ会場に花を贈ってくれた。


そのときは二人ともおおいに驚き、後日、連絡をとってライブに招待した。今でもよくライブを見に来てくれる。クラスの係りの名前をつけることが、まさか教え子の人生を変えるなんて思いもしていなかっただろう。でも、先生にはいい名前をつけてもらったと思う。

小学校時代の山下との思い出はほとんど無い。遊び仲間のグループも違った。山下が遊んでいたグループは、公園に秘密基地をつくってやんちゃをするような子供たち。自分が遊んでいたグループは、部屋にこもってみんなで漫画雑誌をつくるような子供たち。対照的だった。


中学に入ると山下とはさらに疎遠になる。実は中学校1年生のとき、同じクラスだったらしいのだが、その事実を大人になって卒業アルバムを確認するまで二人ともすっかり忘れていた。お互いを意識することなどなかったのだと思う。


高校受験が迫り、自分は県内の高校ではなく、少し遠方の私立高校を受験する気でいた。中学での人間関係にうまく適応できなかった当時の自分は、どうにか地元から離れた、誰も知るひとのいない高校へ行きたいと考えていた。

だが、人生とはおもしろおかしく転がるもので、受験した私立の高校は全てが不合格となる。あの当時はずいぶんと落胆をしたものだけれど、受かって別の高校に通っていたら、山下と親しくなることもなかっただろうし、吉岡に至っては出会うことさえなかった。縁だな、と思う。


高校に入ると疎遠だった山下と親しくなる。部活動が盛んだった母校。そこからあぶれた”帰宅部”の二人。実家も近いので、帰り道をともにすることが多くなった。いきものがかりを結成してからは独特の距離感を保つようになったけれど、この時期はまだ、お互いを「友達」と呼べる時期だった。

山下にいつから「よしき」と呼ばれるようになったかを覚えていない。気づけば自分も山下のことを「ほたか」と呼ぶようになっていた。他人から下の名前で呼ばれることも、他人を下の名前で呼ぶことも、自分の人生では、彼が初めてだったと思う。

やることはなかった。暇を持て余していた。そんなとき「ゆず」というグループが音楽シーンに登場した。地元のテレビ局で流れたミュージックビデオに感化された山下が「路上ライブをしたい」ともちかけてきた。いつもの帰り道での、何気ない会話。人生は動いていたのだと思う。

 



今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第0回』。

 

 

第0回 2015年10月31日

 

『第0回』

今日の1枚。
ビナウォークができる前の海老名駅前で。

 

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16年前。99年2月1日。いちいち日にちを覚えているのは、なぜか律儀に活動日記をつけていたからだ。近くの公民館に無料で借りられる音楽室があり、試しに二人で練習をすることに。だが、いざ行くと公民館は休館日。仕方なく駐車場で歌った。その日を一応の結成日としている。

外で歌った経験などもちろんなかったので、駐車場での練習は想像以上に気持ちが良かった。その心地よさだけが、強く印象にある。まだ自分は一度も聴いたことがないが、山下はその日の録音テープを持っているという。

グループ名は高校生になるまでそれほど親しくなかった自分たちの唯一の共通点を、山下が思い出してきたことから。「小1のときに生き物係だったんだよ。うちら」「あ、そうだったっけ?」「それ、とりあえずのグループ名にしよう」「おう、いいよ」とりあえずのつもりがもう16年経った。

小田急線の相模大野駅で、初めて路上ライブに立つ。99年4月13日。恥ずかしさと緊張で、まだ誰も見てやしないのに、ギターケースを開くのにも1時間ほどかかった。地元の海老名や厚木ではない、少し離れた相模大野の駅を選んだのも、もし友達に見られたら恥ずかしい、という理由だった。

初めて立ち止まってくれたお客さんは、20歳だという若い女性。「君たち、ナミエ歌える?」安室奈美恵さんの曲をリクエストされた。歌えなかった。

当時は空前の”ゆずブーム”。ゆずを真似して路上で歌う男の子たちに、ゆずファンである女の子たちが足を止め、キャッキャと青春を楽しんでいる光景が、日本全国そこらじゅうで見られた。水野、山下のふたりも、そんな光景のなかにいた。

約10年後になるが横浜スタジアムで行われた音野祭というライブで、ゆずのお二人と共演を果たす。駅前でよくカバーしていたのが「ねこじゃらし」だと伝えると一緒に演奏してくれた。嬉しかった。お二人と共演したことでそれまでの憧れや夢に区切りをつける機会にもなった。大切な瞬間だった

ふたりで路上に立っていた頃。水野がメインを歌い、山下がコーラスとハーモニカを担当するという役割分担。ほとんどがカバー曲だったが、「赤いかさ」「地球」「からくり」などの楽曲は当時からあった。吉岡が加入する前から、それらは演奏していたと思う。


他のバンドを並行してやっていたこともあって、曲をつくりだしたのは自分の方が早い。それを見て「良樹ができるのなら、俺もできるだろう」と山下も曲を作ってくる。1曲目はあまり良くなくて、それを伝えたら2曲目に持ってきたのが「地球」だった。すごく良かったので、驚いたし、焦った。

曲をつくり始めた頃から、自分と競争をし合うようなライバルが目の前にいたことは、お互いにとって本当に幸運だったと思う。その競争は「地球」を聴いたときから始まり、今、この瞬間も続いている。

半年ほど経ち、女性ボーカルを入れようという話になった。少しづつ客を集められるようになったが、男性二人組だと女子高生しか足を止めてくれない。街には自分達と同じ、ゆずを真似しただけの男性二人組のユニットが溢れていた。真似をしているだけではつまらないと、少し、感じ始めていた



今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第1回』。

 

 



 リーダー、翌11月1日のツイート

  水野「Twitterで、今までを振り返るみたいなのやってるんだよ」
  吉岡「へぇ。どっから振り返ってるの?」
  水野「小学校1年生から」
  吉岡「ふりかえりすぎだよ。」
  水野「やっと次回、吉岡さんが登場だよ」
  吉岡「あら。どうも。」

 

次回まとめ2は第1回より

 

 

 

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