「いきものがたり」 まとめ 3 (第3~4回) [いきものがたり]
第三回 2015年11月11日
『第3回』
今日の1枚。
高校時代に山下から渡された「夢題〜遠くへ〜」のコード譜
本厚木駅前での解散ライブを経て、いきものがかりの3人は、それぞれに淡々とした高校生活に戻っていった。(ま、それまでも何の変哲も無い普通の高校生だったのだが)男子二人は受験へ向かい、吉岡は自分の高校内でのバンド活動にいそしむようになっていた。
やがて春が来て、桜は散り、あえなく浪人生活に入った。男子2名ともに。自分は都内の私立大学に一旦入学したが、思うところあって再受験を決意していた。海老名サービスエリアで早朝アルバイトをして予備校の費用を捻出し、朝はバイト、昼は大学、夜は予備校。という生活を1年ほど続ける。
受験も差し迫った冬の頃だったろうか、以前にも話に出てきた近所の公民館の学習室で、ふたたび、山下と顔を合わすようになる。他にも多くの学生がそこを訪れていて、遅くまで勉強をする。いつも同じ顔ぶれなので、自然と連帯感のようなものが生まれていた。
学習室の前に、小さな休憩スペースがあって、そこにベンチが置いてある。息が詰まると、誰ともなく皆その休憩スペースに集まってきて、たわいもない雑談をする。ついつい長居することもしばしばで、気分転換のつもりが、ずっとそこで友達と話し込んでしまったりすることもよくあった。
山下ともよく話した。浪人生活はやはり気が滅入るので、二人とも受かったあとに何をするのかを楽しく想像することで現実逃避をしていた。「あの楽しかったいきものがかりを、もう一度、ちゃんとやろう!」自然とそんな話ばかりするようになった。
思い出すと恥ずかしさがあるが夢物語ばかり語っていた。「笑っていいとも!」に出てみたいとか「ミュージックステーション」や「紅白」に出てみたいとか。オールナイトニッポンのパーソナリティになってみたいとか。横浜アリーナでライブをするようになりたいとか。絵に描いたような夢物語。
そんなとってもミーハーな夢を無邪気に語りあっていたわけだが、10代の妄想力というのは案外すごいもので、海老名厚木の片田舎から世に出て、そのミーハーな夢を叶えるまでの約数年分の行動計画を、1から100まで本当にこと細かく話し合ってしまった。勉強しないで、なにやってんだ。
しかも近所の公民館の休憩スペースで。恐ろしい勘違いだったと思うけれど、横浜アリーナまでの道(←誇大妄想)が、そのときのバカ男子二人には見えてしまっていた。現実を知らず、怖さを知らず、恥ずかしさを知らないからこそ、できた語り合いだったと思う。なにより、若く、青かった。
今から振り返れば、本当に楽しい時間だった。あのときの自分たちは、まだ現実には出会っていなかったからだ。夢を語るだけでよかったからだ。「わたしはそこにはいなかったんだよなぁ。ずるいなぁ。」と、そのときの話になると、よく吉岡はすねて言う。
あの休憩室で話し合った行動計画をそのあと数年かけて、本当にひとつひとつ実行に移していくことになる。計画通りに進まなかったことがほとんどだけれど、経緯はどうあれ、結果としては休憩室で夢見たことのほとんどは、叶った。出会いに恵まれ、運が良かったんだと思う。
ちなみに正確に言うと、オールナイトニッポンについては、夢を語り合っていた男子二人は念願叶わず、めでたくパーソナリティーに選ばれたのは吉岡ひとりだった。ある時期はずいぶんそのことを話のネタとして使わせてもらったものだ
夢物語のその後の話を先にしてしまったけれど、実は受験が終わったあと、自分としては16年間のなかで最も苦しかったと思う時間を、いきものがかりは過ごすことになる。水野、山下の、子供じみた夢いっぱいの行動計画が本当に始まるのは、実はもう少しあとの話だ。
吉岡が、歌いたくないと、二人に告げてきた。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第4回』。
小学校のマラソン大会。
リーダー(前)とほっち (後)
第4回 2015年11月19日
『第4回』
今日の1枚。
このタンバリンは今も現役で使われています。
吉岡は、地元の音楽大学への進学を決めていた。将来は歌をつかった仕事を…と考えていた彼女は、歌から踊り、芝居まで、広く多くのことを学べると考えてミュージカル科を選んだ。
新しい大学生活もすこし落ち着きはじめた頃だろうか、水野と山下は、受験生時代に話し合ったように、いきものがかりの活動を本格的に再スタートするつもりでいた。今度は、思い出づくりではなく、互いの将来を賭けるものとして。
さっそく吉岡に声をかけると、しかし、思いもしない言葉が返ってきた。「歌いたくない」
高校生まで、ほぼ独学に近いかたちで、自由に歌に接してきた吉岡。歌好きな大家族のもとで育った彼女は、祖父母や両親に教わった童謡から、クラスのみんなの人気者になれるポップスまで、本当にのびのびと、天真爛漫に、歌を歌ってきた。
それが音大に進学し、専門的な訓練にはじめて触れて、容赦ない評価を指導者から下される環境に入った。同級生たちも、能力のある人間ばかり。ただ楽しく歌っていた歌に、吉岡はこのときはじめて、真正面から向き合うことになった。
いざ真剣に向き合ってみれば、自分が技術的に足りない部分が山ほどあることに気づく。彼女いわく「歌い方がわからなくなる」ほど、混乱もした。それまで心のおもむくままに歌ってきたものを、順序立てて考えていかなければならなくなって、戸惑ってしまったそうだ。
基礎も築けていないのに、軽はずみにポップスを歌えない。将来的にポップスを歌うところまで行き着きたいけれど、まだそんな段階にはない。生来の生真面目さもあるのだろうけれど、真正面から考えた結果が、まだ「歌えない」という言葉だったようだ。
いや、困った。本当に困った。大人になった今から振り返れば、そのときの吉岡の言葉も理解できるけれども、当時は活動ができないということに対する焦りが強く、自分自身は大きく戸惑った。説得というより、ただの喧嘩だ。吉岡とは何度もぶつかった。
そうこうしているうちに、今度は山下が海外に行ってしまった。いきものがかりの活動が進まないとわかると、彼はそのまま東南アジア各国をまわるバックパッカーの旅に向かった。たびたび1、2ヶ月の長い期間をとって、日本を離れる。たまに居場所と生存を伝える英文のメールがきた。
山下はそうやって活動休止期間をやり過ごしていたが、自分はそこまで器用ではなく、活動ができないことがつらくて仕方がなかった。心のなかでは音楽の道に進もうと、もう固く決意していた。なのに、自分はたった1歩でさえ、前に進んでいない。それが、つらすぎた。
のちに書くと思うけれど、いきものがかりはデビュー直前にレコード会社の育成期間があって、それもタフな時間だった。だけど個人的にはこの頃のほうがつらかった。前に進むことで生まれるつらさは、まだいい。前に進めない。トライもできない。動けない。そのことの方が、よっぽどつらい。
ただ不思議と、吉岡以外のボーカリストを探そうという話には、一度もならなかった。水野も山下も、自分たちの真ん中にいるのが吉岡であること、逆に言えば吉岡の両側にいるのが自分たちであること。それ以外の想像がつかなかった。何の根拠もないのに、そう思っていた。
本厚木の駅前にサイゼリアがあって、そこでよく話し合ったのを覚えている。大学1年も終わりかけ、自分はもう、やけになってしまっていて「もうこれ以上は待てない。自分は音楽の道に進みたいから、いきものがかりからは離れて、自分でなにかやる」と二人に告げていた。
帰国した山下はそれを聞き「そろそろやばいかな。本当に解散してしまう」と思ったそうだ。山下自身も旅先で色々と考えていたようで、このままだと自分がせっかく書いた曲も、いつか自分の子供に自慢して終わるだけの、ただの思い出になってしまう。それではむなしいなと、思ったらしい。
2003年の2月。水野は自動車免許をとろうと、山形の余目に合宿教習を受けに行った。のどかな田園風景のなかで教習を受けていると、突然山下から電話が入った。「なんか、きよえ。やる気らしいよ。」「は?まじか!?」
山下は常々ぶつかりあっている吉岡と水野をみかねて「良樹がいると話がこじれるな」と思ったらしく、水野がいない時期を狙って吉岡を呼び出し、1対1で話し合って「やってだめなら、やめればいい。だったら一度はやってみたら。」と説得したそうだ。吉岡が、それであっさり折れたという。
寸分たがわぬ言葉を1年間にわたって水野も吉岡に伝えていたが、たった1回の山下の言葉のほうがなぜか効いてしまい、吉岡は説得に応じた。…という話は、いまでもよくネタにする笑い話だが、つまるところ、水野と山下は、吉岡がボーカルでいてくれることをあきらめなかった。
本人たちにその自覚があったかどうかは別にして、この2003年に、3人と、3人を遠くない未来に支えていく多くの人々の、人生の歯車が少しずつ噛み合い始めていく。出会いは、もうすぐそこにあった。ただまだ3人は、本当に3人きりだった。そこには、僕らの他に、まだ誰もいなかった。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第5回』。
「 いきものがたり 」 まとめ 2 (第1回〜2回) [いきものがたり]
今日の1枚。
いきものがかり、3人。
吉岡との出会いは、厚木市内の市営スタジオの廊下。今は無いが、当時、図書館に併設された簡易的な防音スタジオが市民に安価で貸し出されていて、お金の無い高校生はそこでバンド練習をするのが常だった。
椎名林檎さんがブレイクをした頃だった。椎名林檎さんのコピーバンドをしたいと、友達連中で盛り上がる。しかし肝心の女性ボーカルがいない。当時の母校はバンド活動が盛んで、相談する仲間はたくさんいた。すると友人のバンドでボーカルをしていた”吉岡くん"の妹が「歌がうまい」という。
スタジオで待ち合わせた。早めに着いた自分は、廊下で座って待っていた。間もなく、ベーシストの男の子がくる。彼とも、その時はまだそれほど親しくなかったので、ふたりでぎこちなく雑談をしていると、廊下の向こうから、とんでもなく明るいオーラを放った女の子がやってきた。
突然、親しげにベーシストの男の子に挨拶をするので「知り合いなの?」と聞くと「いや、この子だよ。吉岡くんの妹。この子が、ボーカルの聖恵ちゃん。」「あ、君が。」それが、吉岡聖恵だった。
「はじめて吉岡さんの歌声を聴いたとき、運命を感じましたか?」などと訊かれることがたまにあるけれど、そんなにドラマチックな感情はなかった。ただ、とっても明るい子だなぁということと、とっても歌がうまい子だなぁということ。
しばらくして彼女を、いきものがかりのボーカルに誘ったらいいんじゃないかと思うようになる。歌が上手いことはもちろんだけれど、何よりその天真爛漫なキャラクターが、水野と山下の二人に挟まれた真ん中に、とても合いそうな気がした。
いつもの帰り道。たしかもう、夜だった。相鉄バスの一番後方の席。横並びに座った隣に、山下がいた。”聖恵ちゃん”という女の子のことを、そのとき初めて話した。
「吉岡くんの妹が歌がうまいんだよ。誘ったらいいと思うんだ」「おお、いいじゃん。誘ってみれば」そんな会話。すると驚くことにその瞬間に、当の本人である吉岡からメールが来た。「水野くん、路上ライブをしているって聞きました。よかったら一度、私も一緒に歌わせてくれませんか?」
16年もやっていると「ああ、今、人生が変わるのかもな」と思う瞬間に何度か出会う。最初にそれを感じたのは、この時だった。誘おうという話をしていたまさにその瞬間に、吉岡からのメール。その驚きを強く覚えている。でも、山下はその日のことをあまり覚えていないらしい。
吉岡加入前に、よく水野と山下で路上ライブをやっていた相模大野駅の近くには、女子高がある。その女子高で文化祭があった。年頃の男子高校生だ、山下と友達数人でそこに遊びに行くことになった。そのなかには吉岡の兄もいた。文化祭帰りに、いつもの流れで路上ライブをやることになる。
吉岡の兄が「うちの妹と一緒に路上ライブをやるって話になってるんでしょ?今から、あいつを呼ぼうか?」電話で妹を呼んでくれた。しばらくすると赤い縁のメガネをした吉岡がやってきた。山下はそのときが初対面。そのメガネの印象が強いと言う。吉岡は「精一杯のおしゃれだった」とのこと。
その場でキーを合わせ、ゆずの「夏色」を歌った。このときもドラマティックな感覚はなかった。山下も、別に何とも思わなかったという。吉岡からも 「ただ楽しかった」くらいの感想しか聞いたことがない。あえて言うなら、不思議なほど3人になったことが”自然”ではあった。
今から思えば3人であることが、初めて一緒に演奏したその日から"自然"であったことのほうが"特別"だったのかな、とは思う。安い芝居じみた言い方をすれば「まるで最初から、そうであったかのように」
ちょうど16年前。99年11月3日。
僕らは、やっとスタートラインに立った。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第2回』。
結成16周年を迎えました。
これからもよろしくお願いします。いつも、ありがとう。
リーダー昼のツイート
いきものがかり、サプライズ失敗。
この日行われたサプライズイベント
こちらはまた別の記事にて
第 2 回 2015年11月6日
『第2回』
今日の1枚。
高校時代の路上ライブ。
吉岡が加入して3人となってからの路上ライブは毎週水曜日、本厚木駅の北口、タクシーロータリー前。スマホはまだない。ネットが今ほどは普及していなかったから、ホームページで告知...なんてこともない。いつも同じ時間に、同じ場所でやる。それがいちばん手っ取り早い。
練習場所は母校の校舎などで。ひとり、別の高校にいた吉岡は、よく放課後に兄のジャージを借りて、水野と山下がいる学校へ紛れ込んでいた。
先生にみつかり、こっぴどく叱られたこともあった。「君、本当にうちの学校の子か?クラスは?」吉岡「2組です」「うそつけ!うちの高校のクラス分けはA組、B組…のアルファベットだ!」吉岡「ああ!すみません」「君、吉岡の妹だろ!知ってるんだぞ!」知ってるんかい、と思った。
吉岡が加入してからは客層も大きく広がり、学生も、スーツ姿の大人たちも、家族連れも、誰もが立ち止まってくれるように。学校帰りに3人とも学生服のまま路上ライブをしていたので、その姿も珍しかったのだろう。その頃から今まで、あまり客層に変化がないことは、ありがたいし、誇りだ。
路上ライブのエピソードには事欠かない。本厚木駅は夜9時からが露店の時間と決まっていたらしい。9時になると「たこやき屋のオヤジ」が軽トラでやってくる。「邪魔だ!」と大声で怒鳴りながら。演奏するメンバーとお客さん。その間のわずか数mの空間に軽トラを停める。さえぎるように。
「誘っていないけれど、なぜかコラボレーションをしてくる人たち」も多かった。演奏の横で踊り始めたり、自分たちの目の前に突然ヘッドスライディングをしてきたり、ボンゴを持ってきて曲に合わせて夢中で叩きはじめたり。マイクを奪って歌おうとする酔っ払いのおじさんも多かった。
そういうときは焦ってしまったらいけない。トラブルが起きたと思って客が逃げてしまう。ユーモアを交えてうまく対応できれば、逆に「おもしろいことが起きている!」とお客さんが集まってくる。ずいぶんと鍛えられた。酔っ払いのおじさんと絶妙な掛け合いをするのが、吉岡はうまかった。
とにかく楽しかった。音楽の道に憧れはあれど、いきものがかりでプロになろうなどとは、3人とも高校時代は考えていなかった。例えるならそれは、学校の部活動のようなもの。ただただ、楽しかった。そんななかで少し意識に変化が生まれるできことが訪れる。
路上ライブに、某有名番組のスタッフを名乗る大人が訪ねてくる。新人を売り出すオーディションがあるから君たち受けてみないか。今から考えれば、怪しいことこの上ない話だが、なにせ世間知らずの田舎の高校生だ。「これは世に言うスカウトってやつかっ!」と、びっくりしてしまった。
ノコノコと行ったこともない東京のど真ん中?赤坂見附のオーディション会場に3人で出向く。2曲ほど歌ったと思う。自分が演奏中、緊張で無表情だったようで「君はやる気があるのか?」と審査員らしき男性に怒られた。不本意でムスッとした。今でもその時のことをメンバーにからかわれる。
それでも「合格です」と後日、連絡がくる。勢いで受けたがさすがに呑気な高校生でも、いよいよ「あれ?これはやばいんじゃない?俺ら、騙されてない?」本当のところを言うと騙されていたのか、ちゃんとしたものだったのか未だにわからないのだが、このまま話を進めるのはよそう、となった。
そのオーディションがきっかけとなり、将来について話すようになる。誘われた話自体はあやしかったが、それまで楽しいだけでやっていたものの「先」が、もしかしたらあるのかもしれないと思ってしまって、急に3人とも、戸惑ってしまったのだ。まだ10代だ、無理もない。
吉岡と水野は音楽の道に進もうと当時から考えてはいたが、それが「いきものがかり」で、とは思っていなかったと思う。その頃の「いきものがかり」は、とにかく”楽しい”だけだった。真剣に考えれば考えるほど、軽はずみな気持ちで、この道の先を進んでは行けないように、そのときは思えた。
高校生なりに話し合った結果、このグループは楽しいままの思い出として、高校のうちにおしまいにしよう、解散しようとなった。それこそ夏の大会で引退をする部活動のように。水野や山下はもう3年生になっていて、受験も控えていた。地元の駅で解散ライブをすることになった。
解散ライブのことはよく覚えている。本厚木駅の広場に100人か200人か、高校生3人の路上ライブにびっくりするほどの人が集まった。いつの間にか地元では少し名を知られているようになっていた。充実感もあったし、高校時代の素敵な思い出となった。ああ、楽しかった。そう思っていた。
解散ライブのために3人で配った手作りの宣伝用チラシには、格好をつけてこんなセリフが大きく書かれている。「これを逃すと、もう会えない」まさか、想像していなかった。それから15年後の今も、たくさんの人に会いまくっているだなんて。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第3回』。
おまけの1枚。
15年前の解散ライブのチラシ。
もう会えない…てか、すごく会えてる。
リーダー翌7日朝のツイート
「いきものがたり」今後はだいたい1週間に1回くらいの頻度で、
のんびりやっていきます。
どこまでやるかは未定。さすがに、みんな飽きてくるんじゃないかな?と思って笑。
以下、私からのおまけ。。。
リーダー11月3日 打ち上げツイート
結成16年の、なんとかがかりのひとたち。
次回まとめ 3 は第3回から
「 いきものがたり 」 まとめ 1 (ー1回〜0回) [いきものがたり]
第 -1回 2015年10月26日
2016年3月15日の、デビュー10周年にむけて。
連続ツイート企画
【いきものがたり】
不定期更新です。
『第 −1 回』
今日の1枚。
二人時代のいきものがかり。
始まりは、27年前。神奈川県海老名市。小学校1年生。山下と出会う。「ほたか」という名前が「ほたる」と聞こえて、変わった名前だなと思ったことが初対面の記憶。クラスメートだったが、幼なじみと呼べるほど仲が良かったわけではない。
1年1組だった。大きなマンションが近所に出来て、夏休みが明けるのを機に、100人ほどの転入生が入ってくることに。あまりの転入生の多さに、入学早々だったがクラス替えをすることになった。そのため、山下とクラスメートだったのは1学期のあいだのわずか数ヶ月間だけだ。
そのわずかな期間に二人で任されたクラスの係りが”いきものがかり”。廊下に小さな水槽があり、金魚にエサを与える。普通は飼育がかりと呼ぶのだろうが、小学校1年生に「飼育」という言葉は難しいと思ったのだろう、担任の先生が”いきものがかり”と名付けた。
はからずも”名付け親”となってしまった担任の先生は、ずいぶん後になってからテレビに出ている”いきものがかり”というグループのメンバーが、自分の知る「みずのくん」と「やましたくん」であると、人に知らされて、気づいたそうだ。ライブ会場に花を贈ってくれた。
そのときは二人ともおおいに驚き、後日、連絡をとってライブに招待した。今でもよくライブを見に来てくれる。クラスの係りの名前をつけることが、まさか教え子の人生を変えるなんて思いもしていなかっただろう。でも、先生にはいい名前をつけてもらったと思う。
小学校時代の山下との思い出はほとんど無い。遊び仲間のグループも違った。山下が遊んでいたグループは、公園に秘密基地をつくってやんちゃをするような子供たち。自分が遊んでいたグループは、部屋にこもってみんなで漫画雑誌をつくるような子供たち。対照的だった。
中学に入ると山下とはさらに疎遠になる。実は中学校1年生のとき、同じクラスだったらしいのだが、その事実を大人になって卒業アルバムを確認するまで二人ともすっかり忘れていた。お互いを意識することなどなかったのだと思う。
高校受験が迫り、自分は県内の高校ではなく、少し遠方の私立高校を受験する気でいた。中学での人間関係にうまく適応できなかった当時の自分は、どうにか地元から離れた、誰も知るひとのいない高校へ行きたいと考えていた。
だが、人生とはおもしろおかしく転がるもので、受験した私立の高校は全てが不合格となる。あの当時はずいぶんと落胆をしたものだけれど、受かって別の高校に通っていたら、山下と親しくなることもなかっただろうし、吉岡に至っては出会うことさえなかった。縁だな、と思う。
高校に入ると疎遠だった山下と親しくなる。部活動が盛んだった母校。そこからあぶれた”帰宅部”の二人。実家も近いので、帰り道をともにすることが多くなった。いきものがかりを結成してからは独特の距離感を保つようになったけれど、この時期はまだ、お互いを「友達」と呼べる時期だった。
山下にいつから「よしき」と呼ばれるようになったかを覚えていない。気づけば自分も山下のことを「ほたか」と呼ぶようになっていた。他人から下の名前で呼ばれることも、他人を下の名前で呼ぶことも、自分の人生では、彼が初めてだったと思う。
やることはなかった。暇を持て余していた。そんなとき「ゆず」というグループが音楽シーンに登場した。地元のテレビ局で流れたミュージックビデオに感化された山下が「路上ライブをしたい」ともちかけてきた。いつもの帰り道での、何気ない会話。人生は動いていたのだと思う。
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第0回』。
第0回 2015年10月31日
『第0回』
今日の1枚。
ビナウォークができる前の海老名駅前で。
16年前。99年2月1日。いちいち日にちを覚えているのは、なぜか律儀に活動日記をつけていたからだ。近くの公民館に無料で借りられる音楽室があり、試しに二人で練習をすることに。だが、いざ行くと公民館は休館日。仕方なく駐車場で歌った。その日を一応の結成日としている。
外で歌った経験などもちろんなかったので、駐車場での練習は想像以上に気持ちが良かった。その心地よさだけが、強く印象にある。まだ自分は一度も聴いたことがないが、山下はその日の録音テープを持っているという。
グループ名は高校生になるまでそれほど親しくなかった自分たちの唯一の共通点を、山下が思い出してきたことから。「小1のときに生き物係だったんだよ。うちら」「あ、そうだったっけ?」「それ、とりあえずのグループ名にしよう」「おう、いいよ」とりあえずのつもりがもう16年経った。
小田急線の相模大野駅で、初めて路上ライブに立つ。99年4月13日。恥ずかしさと緊張で、まだ誰も見てやしないのに、ギターケースを開くのにも1時間ほどかかった。地元の海老名や厚木ではない、少し離れた相模大野の駅を選んだのも、もし友達に見られたら恥ずかしい、という理由だった。
初めて立ち止まってくれたお客さんは、20歳だという若い女性。「君たち、ナミエ歌える?」安室奈美恵さんの曲をリクエストされた。歌えなかった。
当時は空前の”ゆずブーム”。ゆずを真似して路上で歌う男の子たちに、ゆずファンである女の子たちが足を止め、キャッキャと青春を楽しんでいる光景が、日本全国そこらじゅうで見られた。水野、山下のふたりも、そんな光景のなかにいた。
約10年後になるが横浜スタジアムで行われた音野祭というライブで、ゆずのお二人と共演を果たす。駅前でよくカバーしていたのが「ねこじゃらし」だと伝えると一緒に演奏してくれた。嬉しかった。お二人と共演したことでそれまでの憧れや夢に区切りをつける機会にもなった。大切な瞬間だった
ふたりで路上に立っていた頃。水野がメインを歌い、山下がコーラスとハーモニカを担当するという役割分担。ほとんどがカバー曲だったが、「赤いかさ」「地球」「からくり」などの楽曲は当時からあった。吉岡が加入する前から、それらは演奏していたと思う。
他のバンドを並行してやっていたこともあって、曲をつくりだしたのは自分の方が早い。それを見て「良樹ができるのなら、俺もできるだろう」と山下も曲を作ってくる。1曲目はあまり良くなくて、それを伝えたら2曲目に持ってきたのが「地球」だった。すごく良かったので、驚いたし、焦った。
曲をつくり始めた頃から、自分と競争をし合うようなライバルが目の前にいたことは、お互いにとって本当に幸運だったと思う。その競争は「地球」を聴いたときから始まり、今、この瞬間も続いている。
半年ほど経ち、女性ボーカルを入れようという話になった。少しづつ客を集められるようになったが、男性二人組だと女子高生しか足を止めてくれない。街には自分達と同じ、ゆずを真似しただけの男性二人組のユニットが溢れていた。真似をしているだけではつまらないと、少し、感じ始めていた
今日はここまで。乱文、お粗末様でした。次回は『第1回』。
リーダー、翌11月1日のツイート
水野「Twitterで、今までを振り返るみたいなのやってるんだよ」
吉岡「へぇ。どっから振り返ってるの?」
水野「小学校1年生から」
吉岡「ふりかえりすぎだよ。」
水野「やっと次回、吉岡さんが登場だよ」
吉岡「あら。どうも。」
次回まとめ2は第1回より
秋旅 ~大阪から金沢へ~ 1:山下達郎ライブ編 [山下達郎]
大阪フェスティバルホールでの山下達郎にかこつけて2泊3日の旅へ
行って参りました。
ここでリベンジ。
この日(10/30)はその初日でありました。
初日、おまけ的にやったラスト前の弾き語りは
ありませんでした。(セトリを見たい方は前回の記事を参照)
そこそこありましたね。
ライブの時間はなぜか10分程初日より長かったです。
と、仰っていたのに、、、もういつもの「達郎節」全開でした。
今回のセトリ、、達郎さんが今回全く初めてやる地が入ってるのですが、
そこを相当意識したな。。
フェスの音響もやはり素晴らしかったです。
少し印象が変わっていましたね。。
そんな決意みたいなものをライブを観ながら考えてました。
その時もう少し突っ込んで書ければ良いですね。
この日の飲みはホテルのバーで簡単にと、、
ハウスDJとジャスサックスの融合みたいなおかしなのをやっていて、
日本人客がほとんど居ないんですね。。驚きました。
ツアー初日! 山下達郎 10/9 市川市文化会館 [山下達郎]
夕暮れに浮かぶ市川市文化会館です。
いよいよ待ちに待った山下達郎氏のツアー初日を迎えました。
今回も初日に参加できる幸運を得ることができ、
この上ない喜びと共に会場入りしました。
忘れてしまいましたね。。達郎さんだったかも。。
CD販売の列に着きました。
それがとても良いと思いました。
効き目ありそうですよね。
ご当地プレートと、なぜか卓上カレンダーが
10分程で完売してました。。。
わりと直ぐに無くなっていました。
なんて、呑気に構えて臨んだのですが。。。。
ツアーに参加できない方。。
どうしても予習をしておきたい。。